神戸市水道拡張誌で見る千苅ダムの全体像|大正11年の史料が示す貯水池・嵩上げ・放水路

千苅ダム

2026年8月9日、神戸市北区道場町にある千苅ダム(千苅貯水池)を初めて現地視察しました。

前回は、堰堤に残る大正期の英文銘板や昭和初期の拡張工事の石板など、現地に刻まれた文字を読むという視点から千苅ダムを紹介しました。

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今回は視点を変えます。

大正11年(1922年)に神戸市が刊行した『神戸市水道拡張誌 下巻』と、後年の『神戸市水道七十年史』を読みながら、千苅水源がどのような考えで計画されたのかを見ていきます。

特に注目したのが、昭和初期に実施された約6mの嵩上げが、実は大正期の建設段階から「20尺」の将来拡張として想定されていたことです。

現在の千苅ダムは、完成後に場当たり的に拡張された施設ではなく、最初から将来の神戸を見据えて造られていたことが史料から見えてきました。

【千苅ダム全景】

2026年8月9日に現地視察した千苅ダム。大正期に建設された堰堤は、その後昭和初期に嵩上げされた。
2026年8月9日に現地視察した千苅ダム。大正期に建設された堰堤は、その後昭和初期に嵩上げされた。

目次

神戸の新たな大水源として計画された千苅

神戸の近代水道では、布引貯水池、烏原貯水池などが先に整備されました。

しかし、市域の発展と人口増加によって、さらに大規模な水源の確保が必要になります。

そこで計画されたのが千苅水源です。

現在の現地案内板には、千苅貯水池について、

  • ダムの高さ:42.4m
  • ダムの長さ:106.6m
  • 貯水量:11,244,266m³
  • 最大水深:35m
  • 貯水池の周囲:約23km

と記されています。

【千苅貯水池案内板】

千苅貯水池の現地案内板。現在のダム諸元のほか、羽束川・波豆川、千苅浄水場、上ヶ原浄水場への送水経路も示されている。

しかし、大正期の史料を読むと、現在の諸元だけでは分からない千苅水源の計画思想が見えてきます。

武庫川水系・羽束川に築かれた千苅水源

千苅堰堤の下流を流れているのが羽束川(はつかがわ)です。

現地にも、

「二級河川 羽束川」

と表示されています。

【せんがり橋と羽束川】

千苅堰堤直下の羽束川に架かる「せんがり橋」。千苅水源は武庫川水系の水を利用して築かれた。

「せんがり橋」には、

「架 大正八年五月」

という刻字も残っています。

【「架 大正八年五月」の刻字】

せんがり橋に残る「架 大正八年五月」の文字。1919年5月に架けられたことを現在に伝える。
せんがり橋に残る「架 大正八年五月」の文字。1919年5月に架けられたことを現在に伝える。

『神戸市水道拡張誌 下巻』には、千苅水源を決定するまでの経緯も記されています。

当初は周辺の別の渓流も含めて水源とする計画がありましたが、水量や地形、既存の水利用などを検討したうえで計画が変更され、千苅溪流を中心とした水源計画へ整理されました。

つまり、現在の場所に巨大な貯水池が造られたのは、単に谷を堰き止めやすかったからではありません。

集水区域、水量、導水経路、既存の水利などを総合的に検討した結果として選ばれた水源でした。

将来の神戸水道を担う主力水源

『神戸市水道七十年史』では、当初の千苅貯水池について、神戸市5万戸への給水を主目的として必要貯水量を算定したことが記されています。

さらに、次期拡張時には給水戸数を7万戸まで引き上げる構想も示されています。

一方、大正11年の『神戸市水道拡張誌』を見ると、水道拡張事業全体の中でも千苅水源には大きな給水負担が想定されていました。

史料によって対象とする計画段階や計算方法は異なりますが、共通して読み取れるのは、

千苅が補助的な水源ではなく、将来の神戸水道を支える主力水源として位置づけられていた

ということです。


大正期から想定されていた「20尺」の将来嵩上げ

今回、史料を読んで特に興味深かったのが、将来の堰堤嵩上げについての記述です。

『神戸市水道拡張誌 下巻』では、将来の拡張時に、

堤頂を二十尺高める

ことを考慮した設計であることが記されています。

20尺は約6.06mです。

一方、現在の千苅貯水池案内板には、

昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)にダムの高さを6m高くする工事が行われた

とあります。

つまり、大正期の史料に示された20尺の将来拡張と、昭和初期に実施された約6mの嵩上げが一致します。

【17門のゲートを含む千苅堰堤全景】

17門のゲートが並ぶ現在の千苅堰堤。昭和初期に約6m嵩上げされたが、20尺の将来拡張は大正期の史料ですでに想定されていた。

これは、昭和になって突然、

「水が足りなくなったので6m高くしよう」

と考えたものではなかったことを示します。

将来、水需要がさらに増えることを前提に、千苅堰堤そのものが拡張可能な施設として計画されていたのです。

将来の嵩上げを前提にした堰堤設計

さらに重要なのは、単に「いつか20尺高くする」という構想だけではなかった点です。

『神戸市水道拡張誌』では、将来堤頂を高くした場合にも対応できるよう、堤体の形状や基礎を考慮して設計したことが記されています。

つまり現在の千苅ダムは、

完成後に想定外の増築を加えた施設

というより、

将来の拡張をあらかじめ想定したうえで築かれ、その後実際に嵩上げされた施設

と見ることができます。

昭和4年から6年、本当に「20尺」嵩上げされた

その計画は、十数年後に現実のものとなります。

現在も堰堤に残る昭和初期の水道拡張工事の石板には、

「昭和四年四月ヨリ同六年三月ノ間ニ本堰堤ヲ弐拾尺嵩上シ」

と刻まれています。

【昭和期の水道拡張工事石板】

昭和4年から6年の千苅堰堤嵩上げ工事を記録した石板。「本堰堤ヲ弐拾尺嵩上シ」と刻まれている。

大正期の史料に記された将来20尺の嵩上げ

昭和期の石板に刻まれた実際の20尺嵩上げ

二つの記録を重ねることで、千苅が長期的な拡張を見越して計画されていたことが具体的に見えてきます。


史料から見える千苅堰堤の構造

『神戸市水道七十年史』には、当初の千苅堰堤について、

「堤体はすべて粗石モルタル積みとし」

と記されています。

大正期の『神戸市水道拡張誌』でも、堰堤の築造に粗石モルタル積が用いられたことが確認できます。

一方、現在の案内板では千苅ダムを、

「水道専用の重力式コンクリートダム」

と説明しています。

これは必ずしも矛盾ではありません。

「粗石モルタル積み」は、当時の材料や施工方法を表す言葉。

「重力式コンクリートダム」は、水圧に対して堤体自身の重さで抵抗するという構造形式の分類です。

現在の施設案内だけでは分からない築造方法まで、大正期の史料から読み取ることができます。


洪水を別ルートへ逃がす「特設放水路」

千苅の計画で、もう一つ注目したいのが洪水処理です。

大量の水が貯水池へ流れ込んだ際、そのすべてを主堰堤だけで処理するのではなく、別に特設放水路を設けて洪水を下流へ逃がす計画になっていました。

『神戸市水道七十年史』では、主堰堤の上流に放水堰堤を設け、そこから大規模な隧道を通じて下流へ放水する仕組みが説明されています。

現在の千苅貯水池案内板にも、

「越流トンネル」

として、その経路が描かれています。

【越流トンネル・放流水路】

千苅貯水池の洪水処理を担う越流設備。主堰堤とは別に洪水を逃がす系統が設けられている。
千苅貯水池の洪水処理を担う越流設備。主堰堤とは別に洪水を逃がす系統が設けられている。

ここでも将来拡張が考慮されていました。

『神戸市水道拡張誌』では、将来の貯水位上昇に対応できるよう放水設備を設計する考え方が示されています。

つまり、

堰堤を高くして貯水量だけ増やせばよい

という計画ではありません。

貯水容量を増やすのであれば、それに合わせて洪水を安全に処理する能力も拡張できなければならない

千苅では、そこまで一体として考えられていました。


千苅は「飲み水だけ」のダムではなかった

千苅貯水池の主目的は、神戸市への水道用水の供給です。

しかし、水源開発にはもう一つ重要な課題がありました。

羽束川下流の灌漑用水です。

千苅ダムが造られる以前から、川の水は下流地域の農業に利用されていました。

神戸市が上流で水を貯めるようになったからといって、既存の水利用を無視することはできません。

そのため『神戸市水道拡張誌』では、灌漑期の流量について詳細な検討が行われています。

考え方を簡単に整理すると、

貯水池へ入ってくる水量を把握する

下流の灌漑に必要な水を流す

残る水を神戸市の水道用として利用する

というものです。

水量を測るための「量水池」

この水利用を成り立たせるためには、

どれだけの水が流れ込んでいるのか

を正確に知る必要があります。

そこで千苅では、量水池や量水井などの設備を設け、水量を測定しながら水道用水と下流放流水を管理する仕組みが考えられました。

巨大な堰堤だけを見れば「水を貯める施設」に見えます。

しかし千苅水源全体を見ると、

貯める・測る・取る・流す

という複数の機能を組み合わせた水管理システムだったことが分かります。


千苅の水を神戸へ運ぶ導水システム

千苅ダムは神戸市街地から離れています。

当然、貯水池を造るだけでは市民に水を届けることはできません。

『神戸市水道拡張誌 下巻』には、千苅水源から浄水施設へ水を運ぶ導水路や鉄管線についても詳しく記録されています。

現在の案内板には、千苅貯水池から、

千苅浄水場

へ送られる系統と、

上ヶ原浄水場

へ送られる系統が描かれています。

【千苅貯水池案内板の水路図部分】

千苅貯水池から千苅浄水場、上ヶ原浄水場へ送られる水の経路を示した現地案内図。
千苅貯水池から千苅浄水場、上ヶ原浄水場へ送られる水の経路を示した現地案内図。

つまり千苅ダムは単独で完結する巨大構造物ではありません。

貯水池 → 取水設備 → 導水路 → 浄水施設 → 市内配水

という神戸水道の大きなシステムの最上流部に位置しています。


1918年12月と1919年5月、二つの「完成」

現地の大正期英文銘板には、

COMMENCEMENT : JUNE 1914
COMPLETION : DEC. 1918

と刻まれています。

つまり、この銘板だけを見ると1918年12月完成です。

【千苅堰堤英文銘板】

千苅貯水池建設を記録した大正期の英文銘板。「COMPLETION : DEC. 1918」と刻まれている。

ところが『神戸市水道拡張誌 下巻』では

大正3年(1914年)5月31日 基礎掘削に着手し、

大正8年(1919年)5月10日 全部竣功

と記録されています。

現在の案内板も、

大正3年(1914年)から大正8年(1919年)にかけて建設

と説明しています。

さらに「せんがり橋」に残る年月も、

大正8年5月

です。

つまり現地と史料には、

1918年12月 英文銘板の「COMPLETION」

と、

1919年5月10日 『水道拡張誌』の「全部竣功」

という二つの完成時期が残されています。

主要な堰堤工事の完成と、付帯工事を含めた全体の竣功など、対象とする工事範囲が異なる可能性があります。

この違いは、今後さらに施工記録を追ってみたいところです。


まとめ|完成した時から「次の拡張」を考えていた千苅水源

今回、大正11年の『神戸市水道拡張誌 下巻』まで遡って調べることで、千苅ダムの見え方が大きく変わりました。

千苅は単なる、

「当時不足していた水を確保するためのダム」

ではありません。

将来さらに神戸が成長することを見越し、

  • 大規模な貯水池を築く
  • 将来約6m嵩上げする
  • 嵩上げに対応できる堤体を準備する
  • 放水設備も将来拡張に対応させる
  • 洪水を安全に処理する
  • 下流の灌漑用水を確保する
  • 水量を測定・管理する
  • 遠く神戸へ水を運ぶ

という複数の課題を一体として計画していました。

そして大正期に史料へ記された20尺の将来嵩上げは、昭和4年から6年に実際に行われた20尺の嵩上げと一致します。

【千苅ダム全景】

現在の千苅ダム。大正期の計画史料と現地の構造物を重ねることで、将来の神戸を見据えて築かれた水源だったことが見えてくる。
現在の千苅ダム。大正期の計画史料と現地の構造物を重ねることで、将来の神戸を見据えて築かれた水源だったことが見えてくる。

現地で現在の姿を見るだけでは分からなかった計画思想が、100年以上前の神戸市の史料を重ねることで少しずつ浮かび上がってきました。

千苅水源は、完成した瞬間だけを見て造られた施設ではなく、その先の神戸の成長まで見据えて築かれた都市インフラだったと言えそうです。


関連記事


参考文献・参考資料

  • 神戸市 編『神戸市水道拡張誌 下巻』、神戸市、大正11年(1922年)。千苅水源の選定、千苅貯水池堰堤、将来嵩上げ、量水設備、灌漑用水、特設放水路、導水路等を参照。
    国立国会図書館デジタルコレクション
    https://dl.ndl.go.jp/pid/970720/1/129?keyword=%E5%8D%83%E8%8B%85
  • 神戸市水道局『神戸市水道七十年史』、神戸市水道局、1973年。千苅貯水池の当初計画、必要貯水量、次期拡張計画、粗石モルタル積み、暗渠、放水堰堤、隧道等を参照。
    国立国会図書館デジタルコレクション
    https://dl.ndl.go.jp/pid/10260984/1/119?keyword=%E5%8D%83%E8%8B%85
  • 現地調査・撮影:2026年8月9日
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