千苅貯水池堰堤の石板を読む|「人助天」と英文銘板、昭和の日本語銘板

2026年8月9日、結成されたばかりの神戸アルプスの会のメンバー4名で、神戸市北区道場町にある千苅ダムを視察しました。

私にとって、今回が初めての千苅ダム現地視察です。


【千苅ダム全景】

千苅ダムの堰堤を下流側から見た全景
2026年8月9日に初めて現地視察した千苅ダム。大正期に築かれ、その後昭和初期に嵩上げされた神戸市の水道施設。

巨大な堰堤そのものにも目を奪われました。

しかし今回、特に興味をひかれたのが、堰堤の一角に残された石板に刻まれた文字です。

最上部には、後藤新平による「人助天」

その下には、大正期の千苅貯水池建設を記録した英文銘板

さらに下には、昭和初期の拡張工事を記録した日本語の石板があります。

以前、烏原貯水池でも、堰堤に残された英文銘板や日本語刻字を調べました。

千苅に残る石板と比較すると、同じ神戸水道の施設でありながら、興味深い共通点と変化が見えてきます。

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今回は、千苅堰堤に残された「石に刻まれた文字」を上から順に読みながら、その背景を探ってみます。


目次

現在の千苅には「熊出没注意」

千苅ダムへ向かう途中、現在ならではの注意書きも目に入りました。

【熊出没注意の掲示】

千苅ダム周辺に掲示された熊出没注意の看板
千苅ダム周辺に掲示されていた熊出没注意の案内。2026年には近くの道場町でクマが相次いで確認されている。

2026年7月18日午前6時30分ごろ、北区道場町の山林、JR道場駅周辺に設置されたセンサーカメラにクマが撮影されています。

神戸市によると、6月11日に同じ道場町で撮影された個体と大きさが同程度で、同一個体の可能性が高いものの断定はできないとされています。人的被害は確認されていません。

神戸市も山林に入る際には鈴やラジオ、笛などで音を出し、単独行動を避けるよう呼びかけています。

100年以上前の水道施設を訪ねる一方で、現在の道場町の自然環境にも注意しながら歩く必要があります。


大正8年5月に架けられた「せんがり橋」

千苅堰堤のすぐ下流には、せんがり橋が架かっています。

【せんがり橋全景】

千苅ダム直下の羽束川に架かるせんがり橋
千苅堰堤の直下に架かる「せんがり橋」。橋の下を二級河川・羽束川が流れる。

現地には、

二級河川 羽束川

と表示されています。

羽束川(はつかがわ)は武庫川水系の支流で、この川を堰き止めて造られたのが千苅貯水池です。

そして、せんがり橋には、

架 大正八年五月

と刻まれています。


【「架 大正八年五月」の銘板】

せんがり橋に刻まれた架大正八年五月の銘板
せんがり橋に残る「架 大正八年五月」の文字。1919年5月に架けられたことを現在に伝えている。

大正8年5月、すなわち1919年5月です。

この年月は、後ほど紹介する千苅堰堤の英文銘板に刻まれた「1918年12月完成」と比較すると興味深いものがあります。


現地案内板が伝える千苅貯水池

堰堤へ向かう途中には、千苅貯水池について解説した案内板があります。

【千苅貯水池案内板】

神戸市の千苅貯水池案内板
現地に設置された千苅貯水池の案内板。建設年代や堰堤の規模、貯水池からの送水経路などが紹介されている。

案内板には、千苅貯水池えん堤について、

大正3年(1914年)から大正8年(1919年)にかけて建設

された水道専用の重力式コンクリートダムと説明されています。

また現在の規模として、

高さ42.4m、長さ106.6m、貯水量11,244,266立方メートル、最大水深35m、貯水池周囲23km

などが記されています。

しかし、実際に堰堤へ近づき、そこに残る石板を読んでみると、現在の案内板だけでは見えてこない歴史が現れてきます。


後藤新平の「人助天」

記念碑の最上部に大きく刻まれているのが、

「人助天」

の三文字です。


【「人助天」扁額全景】

千苅堰堤に残る後藤新平揮毫の人助天の扁額
千苅堰堤に残る後藤新平揮毫の「人助天」。右から左へ「人助天」と読む。

当時の横書きですので、右から左へ読みます。

人助天

すなわち、

「人、天を助く」

です。

神戸市立中央図書館も、この言葉を「天の力が及ばぬなら人が天を助けよう」という意味として紹介しています。

雨が降ることそのものは「天」の働きです。

しかし、その水を蓄え、必要な時に都市へ送り、市民へ安定して供給するには、人間の知恵と技術が必要になります。

そう考えると「人助天」という言葉は、

自然の働きを人間の力によって補う

という、近代水道事業そのものを象徴する言葉のようにも感じられます。


「大正七年 天長佳節 新平題」

「人助天」の左側には、小さく文字が刻まれています。


【「大正七年 天長佳節 新平題」部分の拡大】

千苅堰堤の大正七年天長佳節新平題の刻字
「人助天」の横に刻まれた「大正七年 天長佳節 新平題」の文字。「新平」は後藤新平を指す。

そこには、

大正七年
天長佳節
新平題

とあります。

大正7年は1918年

「新平」とは、後藤新平です。

後藤新平は医師出身で、衛生行政や都市政策に深く関わった人物でした。

ここで一つ疑問が生まれます。

なぜ神戸市の水道施設である千苅ダムに、後藤新平の言葉が刻まれているのでしょうか。

千苅貯水池建設時期の後藤は、内務大臣など国家行政の中枢を務め、水道を含む衛生・都市基盤行政と深く関係していました。

ただし、

誰が後藤新平に揮毫を依頼したのか
後藤新平自身が千苅を訪れたのか

については、今回確認した資料だけでは分かりません。

ここは今後さらに一次資料を追いたいところです。


「人助天」の下にある英文銘板

「人助天」のすぐ下には、一転して英語で刻まれた石板があります。

【英文銘板全景】

千苅貯水池の建設年月と佐野藤次郎らを記した英文銘板
千苅貯水池建設を記録した英文銘板。着工・完成年月のほか、鹿島房次郎神戸市長、佐野藤次郎らの名前が刻まれている。

冒頭には、

KOBE CITY
WATER WORKS EXTENSION
SENGARI RESERVOIR

と刻まれています。

日本語にすれば、

神戸市
水道拡張事業
千苅貯水池

です。

続いて、

COMMENCEMENT : JUNE 1914.
COMPLETION : DEC. 1918.

とあります。

つまり、

着工 1914年6月
完成 1918年12月

です。

現存する銘板の転記資料でも、この「COMMENCEMENT : JUNE 1914」「COMPLETION : DEC. 1918」が確認できます。


「1918年完成」と「1919年建設」の違い

ここで、先ほど見た現地案内板との違いに気づきます。

現地案内板では、

1914年から1919年にかけて建設

と説明されています。

ところが、建設当時の英文銘板には、

COMPLETION : DEC. 1918.

と刻まれています。

さらに、堰堤直下のせんがり橋には、

架 大正八年五月

すなわち1919年5月とあります。

神戸市立中央図書館の解説でも、千苅を含む第1回水道拡張工事全体の完成は大正10年とされています。

つまり、

堰堤本体の工事完成
橋など周辺施設の整備
貯水池としての竣工
水道拡張事業全体の完成

は必ずしも同じ日ではありません。

「1918年」と「1919年」の違いを単純にどちらかの間違いとするのではなく、何をもって「完成」とするのかを区別して調べる必要があります。

これも現地の石板を読んだからこそ生まれた疑問です。


烏原では「MR.」、千苅では「DR.」になった佐野藤次郎

英文銘板の中で特に目を引いたのが、技術責任者の表記です。

千苅では、

ENGINEER IN CHIEF : DR. T. SANO.
ASSOC. MEM. INST. C.E.

と刻まれています。


【DR. T. SANO部分の拡大】

千苅堰堤英文銘板のDR T SANO佐野藤次郎の刻字
千苅堰堤の英文銘板に刻まれた「ENGINEER IN CHIEF : DR. T. SANO」。佐野藤次郎を示している。

DR. T. SANO

とは、神戸近代水道を語るうえで欠かせない技術者、佐野藤次郎です。

ここで、以前調査した烏原貯水池の英文銘板と比較してみます。

烏原では、

ENGINEER-IN-CHIEF
MR. T. SANO

でした。

ところが千苅では、

ENGINEER IN CHIEF
DR. T. SANO

です。

烏原

MR. T. SANO

千苅

DR. T. SANO

佐野藤次郎は大正4年(1915年)に工学博士となっています。

そのため、烏原では「MR.」と刻まれていた佐野が、それより後の千苅では「DR.」と刻まれたと考えられます。人物資料でも、佐野の工学博士取得は大正4年とされています。

石に刻まれた肩書きを比較するだけで、一人の技術者の経歴の変化まで見えてくるのです。

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「ASSOC. MEM. INST. C.E.」が意味するもの

佐野藤次郎の名前の下には、

ASSOC. MEM. INST. C.E.

と刻まれています。

これは英国のInstitution of Civil Engineers(英国土木学会)との関係を示す肩書きです。

烏原貯水池にも、

ASSOC. M. INST. C.E.

という同系統の表記が、佐野藤次郎や吉村長策の名前とともに刻まれています。

日本国内の神戸市営水道施設でありながら、布引・烏原・千苅には英語による技術銘板が残されています。

神戸水道の基本計画には英国人技師W・K・バートンが関わり、佐野藤次郎自身も海外の水道・土木技術を学びました。神戸市立中央図書館も、開港後の神戸に西洋技術が流入し、その中で近代水道が形成されていった経緯を紹介しています。

そのことを考えると、英文銘板は単なる外国人向けの表示ではなく、自分たちが導入した近代土木技術の系譜や、国際的な技術者社会とのつながりを示す「技術の署名」だったと見ることもできます。

私は烏原貯水池の記事でも、この可能性について考えました。

ただし、

「英国土木学会への敬意を示すため、あえて英語で刻んだ」

と明記した一次資料を、現時点では確認できていません。

そのため、ここは断定せず、現存する銘板と技術者の経歴から考えられる一つの解釈としておきます。


ところが昭和の拡張工事は日本語になった

さらに興味深いのが、英文銘板のすぐ下にある石板です。


【昭和の日本語石板全景】

千苅堰堤昭和4年から6年の水道拡張工事を記した日本語石板
千苅堰堤の昭和4年から6年にかけての嵩上げ工事を記録した日本語の石板。大正期の英文銘板の直下に残されている。

冒頭には、

神戸市第二回水道拡張工事中

とあります。

続いて、

昭和四年四月ヨリ同六年三月
ノ間ニ本堰堤ヲ弐拾尺嵩上シ
貯水池ノ容積ヲ倍加シテ……

と刻まれています。

20尺は約6m。

つまり昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)にかけて、千苅堰堤を約6m嵩上げし、貯水能力を大幅に増強したことを記録しています。現地石板の転記資料でも同じ内容が確認できます。

ここで注目したいのは、工事内容だけではありません。

大正期の建設記録は英語。

ところが、そのすぐ下にある昭和初期の拡張工事記録は日本語なのです。


なぜ大正期は英語で、昭和初期は日本語なのか

これは今回、現地の石板を見て最も興味を持った点の一つです。

昭和初期という年代を見ると、その後の国際情勢や戦争への接近との関係を考えたくなります。

しかし、この嵩上げ工事が完成したのは1931年3月です。

そのため、

「戦争が近づいたため英語を使わなくなった」

と単純に説明するのは難しいでしょう。

もう一つ考えられるのが、神戸水道を担った技術者と技術環境そのものの変化です。

明治・大正期は、英国など西洋の最新土木技術を積極的に導入していた時代でした。

一方、昭和初期になると、それらの技術を学んだ日本人技術者の次の世代が、自ら既存施設を拡張する時代に入っています。

大正期の英文銘板から昭和期の日本語石板への変化には、海外から近代土木技術を導入する時代から、それを日本人技術者自身が継承・発展させる時代への移行も表れているのかもしれません。

現段階では仮説ですが、今後さらに資料を調べたいテーマです。


佐野藤次郎も「技師長」から「顧問」へ

日本語石板には、再び佐野藤次郎の名前が登場します。

大正期の英文銘板では、

ENGINEER IN CHIEF : DR. T. SANO

でした。

ところが昭和期の石板では、

顧問 工學博士 佐野藤次郎

となっています。


【「顧問 工學博士 佐野藤次郎」の拡大】

千苅堰堤日本語石板の顧問工學博士佐野藤次郎の刻字
昭和期の拡張工事石板に刻まれた「顧問 工學博士 佐野藤次郎」。大正期の「ENGINEER IN CHIEF」から立場が変化している。

つまり、

大正期
ENGINEER IN CHIEF
DR. T. SANO

から、

昭和初期
顧問
工學博士 佐野藤次郎へ。

同じ人物が、第一線の技術責任者から、次の世代を支える顧問へと立場を変えています。

しかも佐野藤次郎は1929年11月に亡くなっています。工学博士としての経歴資料にも没年は昭和4年(1929年)11月7日と記録されています。

つまり佐野は、昭和4年に始まった嵩上げ工事には顧問として関わったものの、昭和6年の完成を見ることなく亡くなったことになります。

それでも完成記念の石板には、その名が残されました。

この点からも、佐野藤次郎が千苅を含む神戸水道に残した功績の大きさを感じます。


一つの記念碑に刻まれた神戸水道の時間

ここで、もう一度記念碑全体を見てみます。


【「人助天」+英文銘板+日本語銘板が一枚に収まった写真】

千苅堰堤の人助天英文銘板昭和水道拡張工事石板の全景
千苅堰堤に残る記念碑。上から後藤新平の「人助天」、大正期の英文銘板、昭和初期の日本語による拡張工事銘板が並ぶ。

最上部には、

後藤新平「人助天」

その下には、

大正期の英文銘板

さらにその下には、

昭和初期の日本語による水道拡張工事の記録

があります。

そして佐野藤次郎は、

烏原 MR. T. SANOから、

千苅 DR. T. SANOへ。

さらに昭和の千苅では、

顧問 工學博士 佐野藤次郎

となっています。

石板は単なる記念物ではありません。

そこに刻まれた文字を一つずつ比較していくと、神戸が西洋の近代水道技術を学び、日本人技術者が巨大な水道施設を築き、さらに次世代へ技術が引き継がれていった過程まで見えてきます。

以前、烏原貯水池の英文刻字を調べた際にも、石に刻まれた文字からさまざまなことが分かりました。烏原の英文銘板には、工事期間、市長、技術者、さらには1913~14年の9フィート嵩上げまで記録されています。

千苅では、その歴史がさらに先へ続いていました。

大正の英語と、昭和の日本語。

二つが同じ場所に重なって残っていること自体が、千苅ダムの重要な見どころではないでしょうか。


次回は「千苅貯水池計画の全貌」へ

今回の記事では、2026年8月9日の現地視察で確認した石板に刻まれた文字に焦点を当てました。

しかし、『神戸市水道七十年史』を読むと、千苅貯水池は単に巨大な堰堤を築いた事業ではなかったことが分かります。

当初は神戸市5万戸への給水を目的としながら、すでに計画段階で将来7万戸への拡張まで想定していました。

さらに、

堤体はすべて粗石モルタル積み
将来の満水面上昇を見越した次期拡張案
施工中の洪水を処理する二つの暗渠
巨大な放水隧道
下流農業への灌漑用放流

まで計画されています。

次回は『神戸市水道七十年史』を手掛かりに、

「千苅貯水池計画の全貌」

を読み解いてみたいと思います。


参考文献・参考資料

  • 神戸市水道局『神戸市水道七十年史』神戸市水道局、1973年。千苅貯水池計画および水道拡張事業に関する記述。国立国会図書館デジタルコレクション。
  • 神戸市立中央図書館「KOBEの本棚 第56号 神戸と水道」。布引・烏原・千苅の神戸近代水道史および千苅堰堤「人助天」の解説。
  • Kobe Alps Lab「烏原貯水池堰堤の英語刻字を読む|なぜ神戸の近代水道施設に英文銘板が残るのか」。烏原貯水池の英文銘板、佐野藤次郎の「MR. T. SANO」「ASSOC. M. INST. C.E.」等との比較資料。
  • 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「佐野藤次郎」。佐野藤次郎の経歴、工学博士取得年、没年等。
  • ダムペディア「千苅ダム」。現地英文銘板および昭和期水道拡張工事銘板の転記資料。
  • 現地確認・撮影:2026年8月9日。千苅堰堤、「人助天」扁額、英文銘板、第二回水道拡張工事石板、千苅貯水池案内板、せんがり橋、羽束川表示、熊出没注意掲示。

烏原貯水池・烏原水源の全体像は、こちらにまとめています。

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