神戸・布引の山中にある布引ダム。
現在は「布引ダム」の名で知られていますが、明治43年(1910)に神戸市が刊行した『神戸市水道誌』を見ると、「布引水源五本松堰堤」として詳しい構造や施工方法が記録されています。
私自身、2020年10月に布引ダムを訪れ、堰堤全体や、現地に残る「五本松堰堤」と刻まれた石を撮影していました。
2026年8月27日に予定されている布引ダム見学会を前に、明治43年の一次資料と現在の姿を照らし合わせながら、五本松堰堤がどのように造られたのかを整理してみます。

現地に残る「五本松堰堤」の文字。現在「布引ダム」と呼ばれている堰堤の歴史的名称を伝えている。2020年10月撮影。
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明治43年の『神戸市水道誌』に登場する「五本松堰堤」
神戸市が明治43年(1910)に刊行した『神戸市水道誌』には、「第六章 現在の規模」の中に、
第二節 布引水源五本松堰堤
という独立した項目があります。
つまり「五本松堰堤」は、後世の通称ではなく、神戸市自身が水道施設の名称として使用していたことが確認できます。
資料には堰堤の規模だけでなく、基礎工事、使用したコンクリートや石材、堰堤内部の構造、放水設備などについても詳しく記されています。

明治期の布引水源五本松貯水池堰堤・外面。現在の布引ダムを下流側から見た姿。
出典:神戸市『神戸市水道誌』明治43年(1910)、国立国会図書館デジタルコレクション
明治43年の資料に残る五本松堰堤の規模
『神戸市水道誌』に記された主な数値を現在の単位に概算すると、次のようになります。
| 項目 | 明治43年の記載 | 現代単位での概算 |
|---|---|---|
| 収水面積 | 1億1,630万平方尺 | 約10.68km² |
| 水深 | 98尺4寸 | 約29.8m |
| 有効容積 | 3,729万5,132立方尺 | 約103.8万m³ |
| 満水面積 | 61万5,798平方尺 | 約5.65ha |
| 堰堤長 | 264尺 | 約80.0m |
| 頂部幅 | 12尺 | 約3.64m |
※現代単位への換算値は概算。原資料の数値は尺・平方尺・立方尺で記載されています。
100年以上前の資料ですが、単に「ダムを造った」という記録ではなく、集水区域、貯水量、堰堤寸法まで具体的に記録されていることが分かります。
五本松堰堤はどのように造られたのか
『神戸市水道誌』では、五本松堰堤について**「礫質コンクリート」**を用いた構造として説明しています。
堰堤の内外面には粗石を配置し、その内部にコンクリートを施工する構成で、場所によってモルタルやコンクリートの配合も変えていました。
また、堰堤を山の斜面に載せるだけではなく、左右の岸や川底を掘り下げ、地質の状態を確認しながら基礎を築いています。
岩盤に亀裂がある部分については補修を行い、その上で堰堤本体を施工していったことも記されています。
現在では完成した堰堤の表面を見るだけですが、その下には明治期の技術者たちが地盤を確認しながら施工した基礎部分が存在しています。

出典:神戸市『神戸市水道誌』明治43年(1910)、国立国会図書館デジタルコレクション
約110年後の布引ダム(五本松堰堤)。2020年10月撮影。

明治30年に着手、明治33年に竣工
『神戸市水道誌』では、五本松堰堤について、
明治30年(1897)3月に根掘りへ着手し、明治33年(1900)3月に堰堤全体が竣工した
と記録しています。
約3年をかけた工事でした。
資料を読み進めると、単に巨大な壁を築いたのではなく、
地盤を掘る
→ 岩盤の状態を確認する
→ 必要な補修を行う
→ 基礎を形成する
→ 粗石やコンクリートを用いて堰堤を築く
という工程が積み重ねられていたことが分かります。
関連記事:大正期の神戸市水道拡張と千苅ダム
布引・烏原だけでは増加する神戸市の水需要を支えられなくなり、その後の水道拡張によって千苅水源へと展開していきます。
貯水池側から見た明治期の五本松堰堤
『神戸市水道誌』には、下流側だけでなく、貯水池側から撮影した写真も残されています。
現在の写真だけを見ていると、どうしても巨大な石積み状の下流面に目が行きますが、貯水池側の写真を見ることで、五本松堰堤が水を貯める構造物であることがより分かりやすくなります。

2020年に見た布引ダムと、明治43年の記録がつながった
2020年10月に布引ダムを訪れた際には、堰堤全体の写真とともに「五本松堰堤」と刻まれた石も撮影していました。
当時は現地に残る一つの名称として撮影したものでしたが、今回『神戸市水道誌』を読み直すことで、
明治43年の公的資料に記された「布引水源五本松堰堤」
と、
現在も現地に残る「五本松堰堤」の文字
がつながりました。
100年以上前の文献を読むだけでなく、実際に現地に残る構造物や文字と照合することで、布引ダムの歴史がより具体的に見えてきます。

8月27日の見学会で確認したいこと
今回、明治43年の資料と2020年の現地写真を整理したことで、現地で確認したい点も明確になってきました。
特に確認したいのは、
- 現在見えている堰堤のうち、明治33年竣工時の部分はどこまで残っているのか
- 補修・改修によって変更された部分はどこか
- 現地の「五本松堰堤」の石刻は、いつ設置されたものなのか
- 明治43年の写真に写る構造物と、現在の構造物をどこまで対応させられるのか
- 当時の粗石・コンクリート構造を現在確認できる場所があるのか
という点です。
2026年8月27日の見学では、こうした点を実際の堰堤を見ながら確認してみたいと思います。
次回は「布引の水はどこへ行くのか」
五本松堰堤を造った目的は、当然ながらダムそのものを造ることではありません。
重要なのは、ここに貯めた水を神戸市内へ送り、水道水として利用することでした。
明治43年の『神戸市水道誌』には、
五本松貯水池
→ 分水堰堤
→ 鼓ヶ滝・雌滝の取水施設
→ 北野浄水場・奥平野浄水場
へとつながる布引水源の施設についても記録されています。
次回は、当時の写真や大正11年(1922)の『神戸市水道拡張誌』も使いながら、「布引ダムの水はどこへ行くのか」を追ってみます。
現在の奥平野浄水場で、布引の水がどのように使われているのかについても、8月27日の見学で確認する予定です。
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参考文献
- 神戸市『神戸市水道誌』神戸市、明治43年(1910)7月。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/845795/1/440 - 神戸市編『神戸市水道拡張誌 上巻』神戸市、大正11年(1922)。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/970719/1/100
写真出典
明治期の写真:神戸市『神戸市水道誌』明治43年(1910)、国立国会図書館デジタルコレクション。
現在の写真:2020年10月、筆者撮影。


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