神戸アルプス縦断徒歩競争大会とは何か?|大正11年の六甲全山縦走大会の起源

神戸新聞に掲載された「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」。岩場を進む選手たちの姿が確認できる。現在の地点は未確定であり、今後の現地踏査の対象としたい。

※菊水山の名称、石碑、菊水紋、登山道整備などの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

目次

はじめに

現在、神戸の山歩きといえば、六甲全山縦走を思い浮かべる人は多いと思います。

須磨から宝塚へ。
六甲山系を長く歩き抜くこの文化には、実は100年以上前の神戸に、よく似た熱狂の原型がありました。

それが、大正11年(1922年)に神戸新聞社が主催した「神戸アルプス縦断徒歩競走大会」です。

大会の出発点は大倉山公園運動場。
決勝点は湊川遊園地勧業館前。

その途中には、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門という五つの関門が置かれました。

選手たちは、市街地では定められた道を走り、山中では関門を通過すれば走路は自由。現在でいえば、トレイルランニングに近い性格を持つ山岳競走でした。

しかも、参加したのは44団体、300余名。
当初予定された11月26日は悪天候で延期され、12月3日に実施。優勝した新田次郎選手の記録は1時間20分37秒。2位の池本米蔵選手との差は、わずか18秒でした。

大正時代の神戸で、これほど本格的な山岳レースが行われていたことは、現在の六甲全山縦走や神戸の登山文化を考えるうえで非常に重要です。

この記事では、神戸新聞の記事をもとに、1922年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会の全体像を整理します。

なお、第4関門として記録された「臍岩」や、写真に残る難所「鹿の背」が現在のどこにあたるのかについては、今後、現地踏査を交えて別記事で詳しく検証していきます。

大正11年の神戸新聞に掲載された「神戸アルプス縦断徒歩競走」の告知記事。出発点は大倉山公園運動場、決勝点は湊川遊園地勧業館前とされた。
大正11年の神戸新聞に掲載された「神戸アルプス縦断徒歩競走」の告知記事。出発点は大倉山公園運動場、決勝点は湊川遊園地勧業館前とされた。

神戸新聞社が主催した山岳競走大会

この大会の正式名称は、神戸新聞紙面では「神戸アルプス縦断徒歩競走大会」と記されています。

主催は神戸新聞社。
記事には、登山趣味を広め、徒歩熱を高め、健全な精神修養に資するために開催すると説明されています。

当初の想定は、登山団体・徒歩団体の代表選手300名による大会でした。
選手は個人申込ではなく、登山団体や徒歩団体を代表する者に限られていました。

つまり、この大会は単なる市民マラソンではありません。
当時の神戸に存在した登山会、徒歩会、職域団体などが代表選手を送り出す、団体対抗の性格を持った山岳競走でした。

大会前の記事では、申込が殺到し、締切前の時点で所定人員を大きく超えたことも報じられています。最終的には44団体、300余名が参加する大規模な大会となりました。

大正時代の神戸では、すでに登山や徒歩を楽しむ団体が数多く存在し、山を舞台にした競技へ参加する熱気があったことが分かります。

コース|大倉山公園から湊川遊園地勧業館前へ

大会の出発点は、大倉山公園運動場。
決勝点は、湊川遊園地勧業館前でした。

新聞紙面には、出発点と決勝点の間に五つの関門を設け、選手は各関門を通過して認印を受けることによって完走とする、と記されています。

五つの関門は次の通りです。

  1. 武徳殿前
  2. 善太郎茶屋
  3. 鍋蓋山頂上
  4. 臍岩
  5. 烏原水源放水門

この中で特に注目されるのが、第4関門の「臍岩」です。

臍岩は、現在の一般的な地図ではほとんど確認できない地名です。
しかし、大正11年の神戸新聞社主催大会では、正式な関門の一つとして記録されています。

つまり、臍岩は単なる後世の思い込みではなく、少なくとも1922年時点で、当時の登山者や大会関係者に認識されていた目標地点だったと考えられます。

新聞紙面には、神戸アルプス縦断徒歩競走大会の順路図も掲載されており、大倉山公園から山中へ入り、五つの関門を経て湊川へ戻る大会の全体像を確認できます。

神戸アルプス縦断徒歩競走大会の順路図。大倉山公園を出発し、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門を経て、湊川遊園地勧業館前へ戻る構成だった。
神戸アルプス縦断徒歩競走大会の順路図。大倉山公園を出発し、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門を経て、湊川遊園地勧業館前へ戻る構成だった。
大会の五つの関門。第4関門として「臍岩」、第5関門として「烏原水源放水門」が記されている
大会の五つの関門。第4関門として「臍岩」、第5関門として「烏原水源放水門」が記されている

当初は11月26日開催予定、雨天延期で12月3日に実施

大会は当初、大正11年11月26日午前9時開始として告知されていました。

しかし、当日は雨天のため延期されます。
新聞記事では、11月26日に挙行予定だった大会が雨天のため延期となり、12月3日に開催されることになったと報じられています。

この延期により、選手たちはさらに練習を続け、実際の路を探究したと記されています。

ここは非常に重要です。

この大会は、ただ決められた道を走るだけの競走ではありませんでした。
選手たちは事前に山に入り、どの道を取るか、どこを通れば速いかを調べていた可能性があります。

現在の登山道が整備された山とは異なり、当時の山中では、土地勘や地形を読む力が大きな差になったはずです。

延期された1週間は、単なる待機期間ではなく、選手たちにとって最後の試走・下見の期間でもあったと考えられます。

当初11月26日に予定されていた大会は雨天のため延期され、12月3日に実施された。延期期間中も選手たちは練習と実地踏査を続けたと報じられている。
当初11月26日に予定されていた大会は雨天のため延期され、12月3日に実施された。延期期間中も選手たちは練習と実地踏査を続けたと報じられている。

山中は走路自由だった

この大会の最も興味深い特徴は、山中では走路が自由だったことです。

新聞記事には、市街地の走路は限定される一方、山路に入れば一切自由という趣旨の記述があります。

市街地では、スタート直後やゴール手前に監視員が配置され、決められた道を通る必要がありました。
一方で、山中では、五つの関門を通過すれば、どのルートを選ぶかは選手に任されていました。

これは現代の整備されたマラソン大会とはまったく違います。

選手たちは、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門という関門を通過しながら、自分の脚力と土地勘で最短・最速の道を選んだことになります。

現在の感覚でいえば、トレイルランニングに近い性格を持つ大会だったといえます。
ただし、当時の道は現在ほど整備されておらず、装備も現代とはまったく違いました。

その意味では、これは単なる「昔のマラソン」ではなく、地形を読む力を含めた本格的な山岳競走だったと考えられます。

市街地では走路が限定され、監視員も配置された。一方、山中では関門を通過すれば走路は自由とされていた。
市街地では走路が限定され、監視員も配置された。一方、山中では関門を通過すれば走路は自由とされていた。

11組に分けて20分間隔で出発

当初の告知では、選手を10組に分け、30分ごとに出発させる予定でした。

しかし、その後の大会規則確定記事では、20分間隔で出発する形に修正されています。
大会直前の記事では、A組からK組まで、11組に分けて番号札を色別にすることも記されています。

つまり、応募の多さや運営上の事情に応じて、大会の進行方法はかなり細かく調整されていました。

選手は自分の出走時間の1時間前までに集合する必要があり、遅れた者は棄権と見なされました。

この点からも、神戸新聞社がかなり本格的に大会運営を行っていたことが分かります。

色分けされた番号札、関門通過の認印、監視員、審判員、集合時間の厳守。
大正時代の大会でありながら、すでに近代スポーツイベントとしての運営体制が整えられていました。

難所「鹿の背」と岩場を進む選手たち

神戸新聞には、「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」と記された写真も掲載されています。

写真には、露出した岩場を登る選手たちの姿が写されています。

現在の菊水山・鍋蓋山・烏原周辺は樹木が茂っています。
しかし、大正時代の写真を見ると、当時は現在より岩場が露出し、山の印象も大きく異なっていた可能性があります。

この「鹿の背」が現在のどこにあたるのかは、まだ確定できません。
また、第4関門の臍岩と同じ場所なのか、別の難所なのかも、現時点では断定できません。

ただし、この写真は、1922年の神戸アルプス縦断徒歩競走が、本格的な岩場を含む山岳競走だったことを示す重要な資料です。

現在の登山道からは見えにくくなった岩場や、笹藪の奥に残る旧道の痕跡を考えるうえでも、この写真は今後の現地調査の重要な手がかりになります。

神戸新聞に掲載された「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」。岩場を進む選手たちの姿が確認できる。現在の地点は未確定であり、今後の現地踏査の対象としたい。
神戸新聞に掲載された「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」。岩場を進む選手たちの姿が確認できる。現在の地点は未確定であり、今後の現地踏査の対象としたい。

優勝は新田次郎、2位とはわずか18秒差

大会結果も神戸新聞に掲載されています。

優勝したのは、三四早起班の新田次郎選手。
記録は1時間20分37秒でした。

2位はマホロバの池本米蔵選手で、記録は1時間20分55秒。
その差はわずか18秒です。

大倉山から山に入り、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門を経て、湊川遊園地勧業館前へ戻るコースです。

現在ほど道が整備されておらず、装備も草鞋、足袋、運動靴などの時代。
その条件で1時間20分台の記録が出ていることは驚異的です。

しかも1位と2位の差は18秒。
これは、単に完走を目指す大会ではなく、当時の徒歩会・登山会の精鋭たちが本気で競ったレースだったことを示しています。

なお、優勝者の名前は新田次郎でした。
後年、加藤文太郎をモデルにした小説『孤高の人』を書いた作家・新田次郎と同姓同名です。もちろん別人ですが、神戸の山岳史を追う中でこの名前に出会うのは、不思議な縁を感じさせます。

神戸新聞に掲載された大会優勝等級表。優勝は三四早起班の新田次郎選手、記録は1時間20分37秒。2位の池本米蔵選手とは18秒差だった。
神戸新聞に掲載された大会優勝等級表。優勝は三四早起班の新田次郎選手、記録は1時間20分37秒。2位の池本米蔵選手とは18秒差だった。

大正時代の神戸にあった山岳スポーツ文化

この大会は、単なる昔のスポーツイベントではありません。

神戸新聞社が主催し、神戸市内と近郊の登山・徒歩団体が多数参加し、山中では走路自由という形式で行われた大規模な山岳競走でした。

そこには、大正時代の神戸で登山・徒歩・山岳スポーツが非常に盛んだったことが表れています。

徒歩会、登山会、職域団体、早起会のような団体が存在し、それぞれが代表選手を送り出して競い合う。
これは、現在の六甲山系の登山文化を考えるうえでも見逃せない事実です。

また、五つの関門の中に臍岩が含まれていること、新聞に鹿の背とされる岩場写真が掲載されていることは、現在では見えにくくなった旧道や岩場、当時の山の姿を考える手がかりにもなります。

既存の文献では、この大会はスポーツ史の一場面として紹介されています。
しかし、現在の菊水山・鍋蓋山・烏原を実際に歩く視点から見ると、この大会記事には別の意味が見えてきます。

それは、現在は樹木や笹藪に隠れた旧道、岩場、地名の記憶を読み直すための資料でもある、ということです。


まとめ

1922年の第1回神戸アルプス縦断徒歩競走大会は、大倉山公園運動場を出発し、湊川遊園地勧業館前を決勝点とする本格的な山岳競走でした。

五つの関門には、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門が置かれました。

大会は当初11月26日に予定されましたが、雨天のため延期され、12月3日に実施されました。
当日は44団体・300余名が参加し、優勝した新田次郎選手は1時間20分37秒で完走しました。

この大会は、現在の六甲全山縦走大会の起源を考えるうえで、極めて重要な記録です。

もちろん、現在の六甲全山縦走大会と制度的に直接つながるものかどうかは、さらに慎重な検証が必要です。
しかし、神戸の山を舞台に、多くの登山・徒歩団体が参加し、山中の地形を読みながら競ったという点で、六甲山系の山岳スポーツ文化の重要な原型であったことは間違いありません。

そして、第4関門「臍岩」や難所「鹿の背」の記録は、現在の菊水山周辺に残る旧道や岩場を考えるうえで、重要な手がかりとなります。

今後は、この大会の全体像を土台として、臍岩、鹿の背、旧道、そして現在の菊水山・鍋蓋山・烏原との関係を、文献調査と現地踏査の両面からさらに掘り下げていきます。


参考文献・確認資料

・神戸新聞「神戸アルプス縦断徒歩競走」関連記事、1922年11月〜12月。
・『プレイランド六甲山史』棚田真輔ほか共著、出版科学総合研究所、1984年。
・『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』兵庫県教育委員会事務局体育保健課編、兵庫県教育委員会、1979年。
・現地確認:菊水山、鍋蓋山、烏原貯水池周辺。

※菊水山のの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

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