菊水山の臍岩(へそ岩)を新聞写真で確認|大正13年・第3回山岳競走大会と六甲全山縦走の前史

『プレイランド六甲山史』や『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』にも、神戸アルプスや山岳競走大会に関する新聞写真が再録されている。

※菊水山の名称、石碑、菊水紋、登山道整備などの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

目次

はじめに

菊水山の南側に、かつて「臍岩(へそ岩)」と呼ばれた岩があった。

この名前は、大正期の神戸アルプス縦断徒歩競走大会や山岳競走大会の資料に登場する。しかし、これまで大きな課題だったのは、臍岩という名前は確認できても、現在のどの岩を指すのかがはっきりしなかったことである。

今回、神戸新聞のマイクロフィルムを調査したところ、1924年(大正13年)4月1日付の神戸新聞に、第3回山岳競走大会の関門写真が掲載されていることを確認した。

その中には、第4関門として「臍岩(へそ岩)」の写真が明記されていた。

これにより、これまで文献や地図上で追ってきた臍岩を、新聞写真として確認することができた。本記事では、まず第3回山岳競走大会の概要を整理し、その中で臍岩がどのように扱われていたのかを確認する。


1924年(大正13年)の神戸新聞に掲載された第3回山岳競走大会の告知。
1924年(大正13年)の神戸新聞に掲載された第3回山岳競走大会の告知。大会規定、走路、関門、関門写真が掲載されている。

第3回山岳競走大会とは何か

第3回山岳競走大会は、神戸新聞社が主催した山岳競走大会である。

記事によると、神戸新聞社は登山趣味を広め、健歩の風を宣揚し、健全な精神修養に資することを目的として、神戸市内に散在する登山団体・徒歩団体を集めて大会を開催していた。

この大会はすでに2回実施されており、各団体から大きな賛同を得たため、年中行事の一つとして第3回大会が行われることになった。

現在の感覚でいえば、これは単なる登山会の行事ではない。神戸新聞社が主催し、多数の登山・徒歩団体が参加し、市街地と山岳地帯を結ぶ本格的な山岳スポーツイベントだった。

のちの六甲全山縦走大会と直接制度的につながるものとまでは言えないが、神戸の山を長距離で歩き、走り、縦断する文化の前史として極めて重要である。

湊川遊園地を発着点とした約17.7kmの山岳コース

第3回山岳競走大会の出発点は、湊川遊園地新開館前広場である。

選手はここを出発し、神戸タワー南手を西へ下り、市電湊川隧道方面から山手線沿いへ進み、下山手五丁目付近から北へ折れて武徳殿前に至った。

そこから山路に入り、再度山方面、塩ヶ原、二軒茶屋、神戸アルプスの稜線、臍岩、烏原水源地を経て、再び湊川方面へ戻る。

大会記事では、競程は十一哩、つまり約17.7キロとされている。

市街地走路は指定された道を通る必要があったが、山に入ってからの走路については、選手の自由に任されていた。これは、現代の舗装されたロードレースとは異なり、当時の登山・徒歩競走が地形を読む競技でもあったことを示している。


出発点・湊川遊園地新開館前広場の山岳大会の順路図。遊園地のシンボル、神戸タワーが記されている。
出発点・湊川遊園地新開館前広場の山岳大会の順路図。遊園地のシンボル、神戸タワーが記されている。

第3回山岳競走大会のコースと5つの関門

大会では、走路上に5つの関門が設けられていた。

第1関門 武徳殿前
第2関門 塩ヶ原
第3関門 二軒茶屋
第4関門 臍岩
第5関門 烏原水源

各関門では、選手が通過証を受け取ることになっていた。通過証を集めて決勝点で提示することで、競走を完了したことを証明する仕組みである。

つまり、これらの関門は単なる地名ではなく、大会運営上の正式な確認地点であった。

なお、第1関門の武徳殿前は現在は存在しない。後年の六甲全山縦走関連資料では、出発・決勝点である湊川遊園地と混同される形で整理されているものもあるが、1924年4月1日付の神戸新聞紙面では、第1関門は「武徳殿前」と確認できる。

第1関門「武徳殿前」。現在は存在しないが、1924年の神戸新聞紙面では第1関門として確認できる。
第1関門「武徳殿前」。現在は存在しないが、1924年の神戸新聞紙面では第1関門として確認できる。
第2関門「塩ヶ原」。現在の修法ヶ原池周辺にあたる地点と考えられる。
第2関門「塩ヶ原」。現在の修法ヶ原池周辺にあたる地点と考えられる。

第3関門から第5関門までの写真

今回の調査で特に重要だったのは、関門写真の存在である。

1924年4月1日付の神戸新聞紙面には、第3関門から第5関門までの写真が縦に3枚並んで掲載されていた。

上段が第3関門「二軒茶屋」。
中段が第4関門「臍岩」。
下段が第5関門「烏原水源放水門」。

マイクロフィルムの閲覧・複写の都合上、今回取得した写真は3つに分けているが、原紙面上では縦につながって掲載されていた。

この配置は極めて重要である。

写真が単独で掲載されていたのではなく、関門順に並べられているため、中段の写真が第4関門「臍岩」に対応することが明確に分かるからである。

第3関門「二軒茶屋」。神戸新聞紙面では、第3〜第5関門の写真が縦に連続して掲載されていた。
第3関門「二軒茶屋」。神戸新聞紙面では、第3〜第5関門の写真が縦に連続して掲載されていた。
第4関門「臍岩(へそ岩)」。1924年4月1日付神戸新聞に掲載された関門写真。これにより、臍岩を新聞写真として確認できた。
第4関門「臍岩(へそ岩)」。1924年4月1日付神戸新聞に掲載された関門写真。これにより、臍岩を新聞写真として確認できた。
第5関門「烏原水源放水門」。第4関門「臍岩」の次に置かれた関門であり、現在の烏原貯水池周辺へ下るルートを示す。
第5関門「烏原水源放水門」。第4関門「臍岩」の次に置かれた関門であり、現在の烏原貯水池周辺へ下るルートを示す。

第4関門「臍岩(へそ岩)」を新聞写真で確認

これまで臍岩については、大正期の資料や地図に名前が出てくることは確認していた。

しかし、問題は写真である。

臍岩という名称があっても、現在のどの岩を指すのかが分からなければ、現地特定には限界がある。

今回、1924年4月1日付の神戸新聞紙面に、第4関門「臍岩」として写真が掲載されていることを確認した。しかも、第3関門「二軒茶屋」、第5関門「烏原水源放水門」と並んで掲載されているため、単なるイメージ写真ではなく、関門写真として扱うことができる。

この点が、今回の調査で最も大きな発見である。

臍岩は、単なる曖昧な通称ではなかった。
大正時代の神戸新聞社主催の山岳競走大会において、第4関門として使われた具体的な地点であり、新聞写真としても記録されていたのである。

以前の臍岩推定は再検証が必要になった

筆者はこれまで、菊水山山頂周辺で臍岩の候補となる岩を探してきた。

大正期の大会資料では、臍岩は鍋蓋山方面から烏原水源へ向かうルート上に置かれている。さらに、当時の地図上でも、城ヶ越山、すなわち現在の菊水山付近に臍岩の表記が確認できる。

そのため、以前の記事では、現地で確認した岩を臍岩候補として整理していた。

しかし今回、1924年4月1日付の神戸新聞に掲載された第4関門「臍岩」の写真を確認したことで、状況が変わった。

新聞写真に写る臍岩の形状は、これまで筆者が候補として考えていた岩とは異なって見える部分がある。そのため、以前の記事で臍岩候補として扱った岩については、改めて再検証が必要になった。

今回の調査で確定できるのは、1924年の神戸新聞に第4関門「臍岩」の写真が掲載されていたという事実である。現在のどの岩が当時の臍岩にあたるのかについては、新聞写真と現地地形を照合し、慎重に確認していきたい。

以前の臍岩位置推定記事。今回、1924年の神戸新聞写真を確認したことで、現地候補岩については再検証が必要になった。


1924年4月3日の大会は雨で延期

第3回山岳競走大会は、当初1924年4月3日に開催される予定だった。

しかし、1924年4月5日付の神戸新聞記事では、雨のため延期されたことが確認できる。記事では、山岳競走大会は翌4月6日に行われると報じられている。

そして1924年4月6日の大会当日記事では、神戸測候所による天候が「北の風、晴れ」とされ、午前8時半から優勝旗返還式を行い、その後、午前9時から競走を開始する流れが記されている。

このように、神戸新聞では大会の事前告知、規定、番組、延期、当日案内が連続して掲載されていた。

これは、第3回山岳競走大会が神戸新聞社にとって大きな主催行事だったことを示している。

1924年4月5日付の神戸新聞では、雨で延期された第3回山岳競走大会が翌6日に開催されることが報じられている。
1924年4月5日付の神戸新聞では、雨で延期された第3回山岳競走大会が翌6日に開催されることが報じられている。

1924年4月6日付の神戸新聞大会当日記事。天候、優勝旗返還式、出発時刻、市街地走路、山中走路の扱いが記されている。
1924年4月6日付の神戸新聞大会当日記事。天候、優勝旗返還式、出発時刻、市街地走路、山中走路の扱いが記されている。

大会結果記事は確認できなかった

大会翌日の1924年4月7日付神戸新聞は、マイクロフィルム上で欠損していた。

そのため、今回の調査では大会当日の結果記事や、実際の順位、当日の現場写真を確認することはできなかった。

これは残念ではあるが、4月1日、4月3日、4月5日、4月6日の記事によって、大会の概要、走路、関門、延期、当日実施の流れはかなり具体的に確認できた。

特に、第4関門「臍岩」の写真が確認できたことは、臍岩調査において大きな成果である。


後年資料との違い

この大会に関する写真は、後年の資料にも掲載されている。

たとえば『プレイランド六甲山史』や『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』にも、神戸アルプスや山岳競走大会に関する新聞写真が再録されている。

しかし、これらの後年資料だけでは、写真がどの紙面に掲載されたものなのか、また大会前の告知記事なのか、当日の記事なのかが分かりにくい。

今回、神戸新聞のマイクロフィルムを確認したことで、少なくとも第3回山岳競走大会の関門写真が1924年4月1日付の紙面に掲載されていたことを確認できた。

この点は重要である。

後年資料では「神戸アルプス」や「山岳競走」の写真としてまとめられていても、原紙面を確認することで、どの大会の、どの時点の記事で、どのように掲載された写真なのかが見えてくる。

『プレイランド六甲山史』や『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』にも、神戸アルプスや山岳競走大会に関する新聞写真が再録されている。
1942年4月6日神戸新聞で掲載された写真。『プレイランド六甲山史』や『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』にも、この新聞写真が再録されている。

六甲全山縦走大会の前史として

現在、神戸では六甲全山縦走大会がよく知られている。

第3回山岳競走大会が、現在の六甲全山縦走大会に直接制度的につながるものとは断定できない。

しかし、大正時代の神戸ではすでに、神戸新聞社主催により、神戸の市街地から山へ入り、再び市街地へ戻る大規模な山岳競走大会が行われていた。

また、1922年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会、1924年の第3回山岳競走大会、そして1925年の六甲山脈大縦走の記録を合わせて見ると、大正期の神戸では、六甲山系を長距離で歩き、走り、縦断する文化が形成されていたことが分かる。

その意味で、第3回山岳競走大会は、六甲全山縦走文化の前史を考えるうえで重要な大会である。

まとめ

1924年(大正13年)4月1日付の神戸新聞には、第3回山岳競走大会の関門写真が掲載されていた。

第1関門は武徳殿前
第2関門は塩ヶ原
第3関門は二軒茶屋
第4関門は臍岩
第5関門は烏原水源放水門

特に重要なのは、第4関門「臍岩」が写真付きで確認できたことである。

これにより、臍岩は単なる通称ではなく、大正時代の神戸新聞社主催山岳競走大会で、実際に関門として使われた地点であることが明確になった。

さらに、現地でこれまで候補として見ていた岩と、新聞写真の臍岩が一致することから、筆者はその岩を当時の臍岩と判断した。

長く所在が分かりにくかった菊水山の臍岩は、神戸新聞の写真資料によって、ようやく姿を現した。

今後は、さらに大正期の地図、山岳会資料、神戸新聞の追加記事、現地地形との照合を重ねながら、この臍岩が神戸アルプスの登山文化の中でどのような意味を持っていたのかを整理していきたい。

参考文献・確認資料

・神戸新聞 1924年(大正13年)4月1日付「第三回山岳競走大会」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月3日付「第三回山岳競走大会」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月5日付「第三回山岳競走大会延期」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月6日付「第三回山岳競走大会当日」関連記事。
・棚田真輔ほか共著『プレイランド六甲山史』出版科学総合研究所、1984年。
・兵庫県教育委員会事務局体育保健課編『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』兵庫県教育委員会、1979年。
・現地確認:菊水山山頂付近、臍岩と判断した岩、烏原貯水池周辺。

※菊水山のの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

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