鵯越横断競走大会とは何か|大正12年、六甲全山縦走路の原型をさらに追う

湊川遊園地の決勝点に入る選手。十二哩の山岳競走を終え、ゴールテープを切る瞬間が神戸新聞に掲載されている。

※菊水山の名称、石碑、菊水紋、登山道整備などの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

目次

はじめに

大正11年、神戸新聞社は「神戸アルプス縦断徒歩競走大会」を開催しました。

大倉山公園を出発し、鍋蓋山、臍岩、烏原水源放水門を経て、湊川遊園地勧業館前へ戻る山岳競走です。

そして翌年、大正12年には、その流れを受けるかたちで「鵯越横断競走大会」が開催されました。

神戸新聞はこの大会を、前年の神戸アルプス縦走大会の成功を受けた「第二回とも見るべき本競走」として紹介しています。

つまり、鵯越横断競走大会は、単独のイベントではなく、大正11年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会に続く、神戸新聞社主催の山岳競走シリーズとして見ることができます。

今回の記事では、神戸新聞に掲載された大正12年の鵯越横断競走大会の記事と写真をもとに、六甲全山縦走路の原型をさらに追っていきます。


鵯越横断競走大会の告知記事】
キャプション:大正12年の神戸新聞に掲載された「鵯越横断競走大会」の告知記事。神戸新聞社は、前年の神戸アルプス縦走大会を受け、「其第二回とも見るべき本競走」として開催を告知している。
キャプション:大正12年の神戸新聞に掲載された「鵯越横断競走大会」の告知記事。神戸新聞社は、前年の神戸アルプス縦走大会を受け、「其第二回とも見るべき本競走」として開催を告知している。
大正12年の神戸新聞に掲載された「鵯越横断競走大会」の告知記事。神戸新聞社は、前年の神戸アルプス縦走大会を受け、「其第二回とも見るべき本競走」として開催を告知している。


大正11年に開催された神戸アルプス縦断徒歩競争大会の概要、五関門、山中走路自由、優勝記録などを整理した記事です。


鵯越横断競走大会とは

鵯越横断競走大会は、大正12年に神戸新聞社が主催した山岳競走大会です。

当初の告知では、期日は3月25日、午前9時開始。
出発点と決勝点はいずれも湊川遊園地前広場とされていました。

その後、日程は延期され、4月1日に実施されています。

大会の全行程は約十二哩、現在の距離にして約19キロ前後にあたります。

出場選手は300名を限度とし、10組に分けて30分ごとに出発する形式でした。
参加できるのは登山団体・徒歩団体を代表する選手に限られ、個人申込は受け付けないとされていました。

つまり、この大会も単なる市民マラソンではなく、登山団体・徒歩団体の代表選手が、団体の名誉をかけて競う本格的な山岳競走でした。

神戸新聞の記事では、各団体が実際の走路で練習を重ね、山中における捷径、つまり近道の調査を行っていたことも報じられています。

ここからも、この大会が単に決められた道を走る競走ではなく、地形を読み、ルートを選ぶ力も問われる山岳レースだったことが分かります。


コースと六つの関門

鵯越横断競走大会の走路は、湊川遊園地前広場を出発し、夢野、高尾山、白川、板宿、西代、長田方面を経て、再び湊川遊園地へ戻るものでした。

神戸新聞には、六つの関門が記されています。

  1. 夢野霊園密大師堂下二股道
  2. 高尾山地蔵堂前
  3. 白川口三本木街道分岐点
  4. 禅昌寺山門前
  5. 西代鵯池
  6. 長田停留所角

この関門配置を見ると、現在の六甲全山縦走路にも通じる、夢野、高尾山、鵯越、板宿、長田方面の山道・市街地境界を横断する大会だったことが分かります。

特に、夢野から高尾山、鵯越方面へ向かう流れは、現在のひよどり道や高尾山周辺の旧道を考えるうえでも非常に重要です。


鵯越横断競走大会の走路と六つの関門を説明する神戸新聞記事。湊川遊園地を出発し、夢野、高尾山、白川、板宿、西代、長田を経て湊川
鵯越横断競走大会の走路と六つの関門を説明する神戸新聞記事。湊川遊園地を出発し、夢野、高尾山、白川、板宿、西代、長田を経て湊川へ戻る十二哩の山岳競走だった。

市街走路は限定、山中は自由

鵯越横断競走大会の大きな特徴は、前回の神戸アルプス縦断徒歩競走大会と同じく、山中のルート選択が選手に委ねられていたことです。

神戸新聞の記事では、市街走路は限定する一方で、山中に入っては何の路を選ぶもすべて選手の自由と説明されています。

これは非常に重要です。

現在のマラソンや登山大会のように、すべてのルートが決められていたわけではありません。

市街地では交通整理や不正防止のために走路が限定されました。
しかし、山中では、関門を通過しさえすれば、どの尾根を越え、どの谷を下り、どの近道を選ぶかは選手の判断に任されていました。

そのため、選手たちは事前に山に入り、実際の走路を調べ、近道を探し、各団体ごとに作戦を練っていたと考えられます。

新聞記事にも、参加各団体が連日実際の走路で練習を重ね、山中の捷径を調査していたことが記されています。

これは、大正時代の神戸に、すでに現代のトレイルランニングにも通じるような山岳競走文化があったことを示しています。


第一関門を通過する選手の列。鵯越横断競走大会は、市街地と山道を組み合わせた本格的な山岳競走であり、各関門で通過証を受ける形式だった。
第一関門を通過する選手の列。鵯越横断競走大会は、市街地と山道を組み合わせた本格的な山岳競走であり、各関門で通過証を受ける形式だった。

「神戸アルプス鹿の背越」との比較

鵯越横断競走大会の記事で、特に注目すべき記述があります。

それは、前回大会における「神戸アルプス鹿の背越」との比較です。

神戸新聞は、鵯越横断競走大会の走路について、第一回大会における神戸アルプス鹿の背越などに比べると、道路は広く、勾配も緩やかである、と説明しています。

これは非常に重要な記述です。

大正11年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会で登場した「鹿の背越」が、翌年の記事でも前回大会の代表的な難所として記憶されていたことを示しているからです。

つまり、鹿の背越は一度きりの写真説明ではなく、神戸新聞社の山岳競走報道の中で、前回大会の難所として認識されていたと考えられます。

この記述によって、大正11年の鹿の背記事と、大正12年の鵯越横断競走大会がつながります


大正11年大会の難所として記録された「神戸アルプス鹿の背越」について、新聞写真と現地踏査の視点から整理した記事です。


現在のひよどり道と旧道の痕跡

この鵯越横断競走大会の記事は、単なる過去の新聞資料ではありません。

現在、烏原登山会や岡本学さんたちによって整備されてきた「ひよどり道」とも重なります。

ひよどり道は、最近まで草藪に埋もれていた場所もありました。
しかし、岡本さんや登山会の方々の整備によって、再び歩ける道として蘇ってきました。

現在でも、ひよどり道には古い石段が残っています。

また、鵯越の住職からは、かつて高尾山方面まで道が続いていたという話も聞いています。

大正12年の鵯越横断競走大会では、夢野、高尾山、鵯越方面を横断するルートが設定されていました。
そのため、当時の競走路と、現在のひよどり道や旧道の痕跡を重ねて考えることには大きな意味があります。

新聞記事に記された大正時代の山岳競走は、現在の山道の中に、まだ痕跡を残しているかもしれません。


最近まで草藪に埋もれていたひよどり道を、烏原登山会や岡本学さんたちが整備してきた記録です。大正12年の鵯越横断競走大会に見える高尾山・鵯越方面の山道を、現在の道の痕跡と重ねて考えるうえで重要な関連記事です。


写真で見る鵯越横断競走大会

神戸新聞は、鵯越横断競走大会を写真入りで大きく報じています。

記事には、第一関門を通過する選手の列、ゴールテープを切る選手、個人・団体の表彰選手、成績表、優勝旗を持つ選手たちの写真などが掲載されています。

これは、鵯越横断競走大会が単なる小規模な山歩きではなく、新聞社主催の大規模なスポーツイベントとして扱われていたことを示しています。

また、写真を見ることで、当時の選手の服装、走る姿、観衆の存在、大会の熱気をより具体的に感じることができます。


湊川遊園地の決勝点に入る選手。十二哩の山岳競走を終え、ゴールテープを切る瞬間が神戸新聞に掲載されている。
湊川遊園地の決勝点に入る選手。十二哩の山岳競走を終え、ゴールテープを切る瞬間が神戸新聞に掲載されている。

個人優勝は中川廣三、団体優勝は扇港若葉会

鵯越横断競走大会の結果も、神戸新聞に掲載されています。

個人優勝は、神戸登山会の中川廣三選手。
記録は1時間25分04秒でした。

団体優勝は、扇港若葉会と報じられています。

個人決勝成績表には、上位十名の記録が掲載されています。

1等 中川廣三 神戸登山会 1時間25分04秒
2等 大井鐵太郎 楠谷青年団 1時間27分57秒
3等 源松治 ランニング 1時間28分09秒
4等 藤井清一 扇港若葉会 1時間28分29秒
5等 東城爲二 野歩路会 1時間29分00秒
6等 小崎司郎 海栄登山会 1時間29分29秒
7等 中山留次郎 扇港若葉会 1時間29分36秒
8等 武村留太郎 鶏鳴徒歩会 1時間29分40秒
9等 河浦床次郎 野歩路会 1時間29分51秒
10等 田中秀雄 神戸サグロ 1時間29分54秒

十二哩に及ぶ山岳競走で、上位十名が1時間30分前後に集中していることから、当時の登山団体・徒歩団体の選手たちの走力の高さが分かります。


神戸新聞に掲載された個人決勝成績表。中川廣三選手が1時間25分04秒で一等となり、上位十名の記録が掲載
神戸新聞に掲載された個人決勝成績表。中川廣三選手が1時間25分04秒で一等となり、上位十名の記録が掲載されている。

個人・団体の表彰選手たち。個人優勝は神戸登山会の中川廣三選手、団体優勝は扇港若葉会と報じられている。

優勝授与式
優勝授与式
個人の入賞を果たした10選手の記念撮影。
個人の入賞を果たした10選手の記念撮影。
栄光に飾られた団体優勝の扇港若葉会会と報じられている。
栄光に飾られた団体優勝の扇港若葉会。当時、神戸校は扇港と呼ばれていた。

個人の表彰選手たち。個人優勝は神戸登山会の中川廣三選手と報じられている。


第三回大会、そして神戸アルプスの記録へ

大正11年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会。
大正12年の鵯越横断競走大会。
そして大正13年の第三回山岳競走大会。

これらは、神戸新聞社が主催した一連の山岳競走として見ることができます。

大正13年の第三回大会では、第4関門「臍岩」の写真が神戸新聞紙面に掲載されていることも確認できます。

つまり、神戸アルプス、鵯越、臍岩、鹿の背といった地名や難所は、単発の記事ではなく、大正期の神戸の山岳競走文化の中で繰り返し登場しているのです。

また、「神戸アルプス」という呼称自体も、正式な固定地名というより、大正期の登山者や新聞記事の中で使われた通称・景観概念でした。

神戸アルプスをどの範囲と見るか。
鹿の背はどこだったのか。
臍岩は現在のどの岩なのか。
鵯越横断の道は、現在のどの道に重なるのか。

これらは、現在の六甲全山縦走路の前史を考えるうえで、重要な問いになります。

大正13年の第3回山岳競走大会で、第4関門「臍岩」の写真を神戸新聞紙面から確認した記事です。

大正期資料から、神戸アルプスという通称がどの範囲を指していたのかを整理した記事です。


まとめ

大正12年の鵯越横断競走大会は、前年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会を受けた、第二回とも見るべき山岳競走として開催されました。

湊川遊園地を発着し、夢野、高尾山、白川、板宿、西代、長田方面をめぐる十二哩のコース。
六つの関門。
市街走路は限定され、山中ではルート自由。
そして、登山団体・徒歩団体を代表する300名の選手たち。

この大会は、現在の六甲全山縦走路の原型を考えるうえで非常に重要な記録です。

さらに、記事中には「神戸アルプス鹿の背越」との比較も見られ、大正11年大会の難所が翌年の大会記事でも記憶されていたことが分かります。

現在、ひよどり道は岡本学さんや烏原登山会の方々によって整備され、再び歩ける道として蘇っています。
そこには古い石段も残り、鵯越の住職からは高尾山方面まで道が続いていたという話も聞いています。

大正12年の新聞記事と、現在の山道の痕跡。

その二つを重ねることで、神戸の山に残る六甲全山縦走路の前史が、少しずつ見えてくるのかもしれません。


参考文献・確認資料

・神戸新聞「鵯越横断競走大会」関連記事、1923年3月〜4月。
・神戸新聞「神戸アルプス縦断徒歩競走大会」関連記事、1922年11月〜12月。
・神戸新聞「第3回山岳競走大会」関連記事、1924年4月。
・現地確認:ひよどり道、福寿院夢野大師奥ノ院、夢野、高尾山、鵯越周辺。
・聞き取り:鵯越周辺寺院関係者、地域登山会関係者。

※菊水山のの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。

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