※菊水山の名称、石碑、菊水紋、登山道整備などの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。
はじめに
大正11年、神戸新聞社が主催した「神戸アルプス縦断徒歩競争大会」では、現在の六甲全山縦走大会の原型ともいえる山岳競走が行われていました。
大倉山公園を出発し、武徳殿前、善太郎茶屋、鍋蓋山頂上、臍岩、烏原水源放水門を通過して、湊川遊園地勧業館前へ戻る大会です。
この大会の記事を追っていくと、ひとつ気になる表現が出てきます。
それが、
「神戸アルプスの峻険な鹿の背」
です。
大正11年の神戸新聞には、露出した岩場を登る選手たちの写真が掲載され、その説明として「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」と記されています。
では、この「鹿の背」とは現在のどこにあたるのでしょうか。
現在の地図や一般的な登山道案内では、神戸アルプスの鹿の背という地名はほとんど確認できません。
本記事では、鹿の背の場所を断定するのではなく、大正期の神戸新聞記事、当時の大会写真、神戸アルプスという通称の意味、そして現在の鍋蓋山・菊水山・烏原周辺の現地踏査をもとに、今後検証すべき調査命題として整理します。

神戸アルプス縦断徒歩競争大会と鹿の背
まず前提として、この鹿の背は、神戸アルプス縦断徒歩競争大会の記事の中に現れます。
第1回大会のコースは、大倉山公園運動場を出発し、湊川遊園地勧業館前を決勝点とするものでした。
途中には五つの関門が置かれました。
- 武徳殿前
- 善太郎茶屋
- 鍋蓋山頂上
- 臍岩
- 烏原水源放水門
この大会では、市街地では走路が指定されていましたが、山中では関門を通過すれば走路は自由とされていました。
つまり、選手たちは現在の登山道をそのままなぞったわけではありません。
地形を読み、近道を探し、尾根や谷を越えながら、関門を通過していた可能性があります。
その山中区間の難所として新聞に現れるのが、「鹿の背」です。

第1回神戸アルプス縦断徒歩競争大会の概要、五関門、雨天延期、優勝記録などを整理した記事です。
新聞写真に残る「鹿の背」
大正11年の神戸新聞には、岩場を登る選手たちの写真が掲載されています。
写真説明には、「選手の最も難所とせる 神戸アルプスの峻険な鹿の背」とあります。
この写真は非常に重要です。
なぜなら、「鹿の背」という表現が、単なる比喩ではなく、実際に選手たちが通過する岩場・難所と結びついているからです。
写真には、露出した岩場を登る選手の姿が写っています。
上部には、選手を待つ審査員、または関門係と思われる人物も確認できます。
現在の鍋蓋山・菊水山周辺は樹木に覆われていますが、この写真からは、当時の神戸アルプスが現在よりも岩肌の目立つ山だったことがうかがえます。
ただし、この写真が現在のどの地点を写したものなのかは、まだ分かりません。
鹿の背が第4関門の臍岩と同じ場所なのか、それとも別の岩場なのかも、現時点では断定できません。

同じ岩場写真が第3回大会でも使われている
この岩場写真は、第1回大会の記事だけでなく、後の第3回山岳競走大会前の記事でも使用されています。
第3回大会の記事では、写真脇に「神戸アルプスの峻険を突破」と読める文言が確認できます。
これは重要です。
もしこの写真が一度だけ使われた偶然の写真であれば、単なる大会の雰囲気写真と見ることもできます。
しかし、同じ岩場写真が別の大会記事でも再使用されているなら、神戸新聞はこの岩場を「神戸アルプスの峻険」を象徴する写真として扱っていた可能性があります。
さらに第3回大会の記事本文にも、「神戸アルプスの峻嶮 鹿の背」という表現が見えます。
つまり、「鹿の背」は一回限りの言葉ではなく、大正期の神戸アルプス山岳競走において、難所として認識されていた可能性が高いと考えられます。

1924年の神戸新聞紙面から、第3回山岳競走大会の関門写真と第4関門・臍岩を確認した記事です。
第3関門・鍋蓋山の写真が示すもの
第1回大会では、第3関門が鍋蓋山頂上、第4関門が臍岩、第5関門が烏原水源放水門でした。
この順序を考えると、鹿の背を探すうえで、鍋蓋山周辺は重要な候補になります。
神戸新聞には、第3関門・鍋蓋山を示す写真も掲載されています。
写真には、山頂付近とみられる場所に大きな二つの岩があり、その近くに人物が写っています。
この二つの大きな岩は、現在のどの地点に対応するのか。
現在の鍋蓋山山頂周辺にその痕跡があるのか。
あるいは、当時の山頂付近の景観は現在とは大きく異なっていたのか。
この写真もまた、鹿の背や臍岩の位置を考えるうえで重要な手がかりになります。
少なくとも、大会記事の中で鍋蓋山は単なる通過点ではなく、写真で示される関門地点として扱われていました。

神戸アルプスの全容写真と菊水山方面
大会当日の神戸新聞には、「神戸アルプスの全容」として山の遠望写真も掲載されています。
この写真には、現在の菊水山方面とみられる山容が写されています。
現在の菊水山は樹木に覆われていますが、大正期の写真では山肌の起伏や岩場らしき白い露出部分が目立ちます。
これは、鹿の背を考えるうえで重要です。
「神戸アルプスの峻険な鹿の背」という表現は、現在の樹林化した山を見ているだけでは実感しにくいものです。
しかし、大正期の遠望写真を見ると、当時の神戸アルプスは、現在よりも岩肌や裸山の印象が強かった可能性があります。
つまり、鹿の背は現在の菊水山周辺、または菊水山へ連なる岩場・稜線上に存在した可能性があります。
ただし、ここでも断定はできません。
当時の「神戸アルプス」は、菊水山単独ではなく、鍋蓋山から高山・城ヶ越山、さらに烏原方面へ続く山域を含む通称として使われていた可能性があります。
そのため、鹿の背を現在の地図上の一点としてすぐに対応させるのではなく、鍋蓋山から菊水山、烏原方面へ向かう旧ルート全体の中で考える必要があります。

景観概念としての神戸アルプス
ここで、「神戸アルプス」という言葉そのものについて考える必要があります。
神戸アルプスは、現在の地図上に固定された正式地名というより、大正期の登山者や新聞記事の中で使われた通称・景観概念として見るべきです。
大正13年刊行の近畿登山研究会編『近畿の登山』では、再度山について「所謂神戸アルプスの出発点あるいは中心地」と説明しています。また、山頂からは神戸アルプスを一望できると記されています。
大正14年刊行の『登山と遊覧:近畿名所その附近』では、神戸アルプスについて、鍋蓋山から高山または城ヶ越山に至る間の名称と説明されています。
さらに、その山域については、「岩石陸々」「路ますます嶮悪を極め」「ほとんど樹木のない裸山」といった表現が見られます。
これらの表現は、新聞写真に写る岩場や、「神戸アルプスの峻険な鹿の背」という言葉とよく響き合います。
つまり、当時の神戸アルプスは、現在のように樹林に覆われた山というより、裸山、露出した岩肌、連続する稜線、展望のよい岩場を含む山域として認識されていた可能性があります。
大正期資料から、「神戸アルプス」という呼称の範囲や変遷を整理した記事です。
鹿の背は正式地名だったのか
ここで重要なのは、大正期の登山案内には、神戸アルプスという呼称や、岩石陸々、嶮悪、裸山といった景観表現が見える一方で、確認した範囲では「鹿の背」という語が見当たらないことです。
鹿の背という表現がはっきり確認できるのは、神戸新聞の山岳競走大会記事です。
このことから、鹿の背は公的な山名や地図上の地名というより、神戸アルプス縦断徒歩競走大会の文脈で使われた難所名、あるいは当時の登山者・徒歩会の間で通じていた局所的な通称だった可能性があります。
そもそも神戸アルプス自体が固定された山名ではなく、鍋蓋山から高山・城ヶ越山方面に至る岩場・裸山の景観を含む通称でした。
したがって、鹿の背を現在の地図上の一点にただちに対応させるのではなく、当時の神戸アルプスという景観概念の中で読み直す必要があります。
臍岩との関係
鹿の背を考えるうえで、第4関門「臍岩」との関係も避けて通れません。
第1回大会では、第3関門が鍋蓋山頂上、第4関門が臍岩、第5関門が烏原水源放水門でした。
つまり、臍岩は鍋蓋山から烏原方面へ向かう途中の重要な通過地点だったと考えられます。
一方、鹿の背は、新聞記事の中では難所として扱われています。
ここで注意すべきなのは、臍岩と鹿の背をすぐに同一視しないことです。
臍岩は関門名。
鹿の背は難所名。
両者が同じ場所だった可能性もありますが、別の岩場だった可能性もあります。
ただし、どちらも鍋蓋山から臍岩、烏原水源へ向かう神戸アルプス縦断ルート上で重要な地点だった可能性があります。
現時点では、鹿の背と臍岩の関係は未確定です。
しかし、この未確定性こそ、今後の現地踏査で検証すべき重要な課題です。


当時の大会写真が伝えるもの
神戸新聞は、この大会を単なる結果記事としてではなく、複数の写真を用いて大きく報じています。
紙面には、「決勝点に入る雄姿」「誉の十選手」「優勝旗を囲む」「優勝旗授与式」「スターターの刹那」といった写真説明が確認できます。
また、大会前の記事には、鉢巻を巻いた丸刈りの選手が、スタート前のように身構える写真も掲載されています。
人物名や実際の出場大会までは確認できませんが、当時の徒歩競走・山岳競走に臨む選手の体つきや表情を伝える写真として興味深いものです。
これらの写真からは、神戸アルプス縦断徒歩競走大会が、新聞社主催の大規模な山岳競走として、かなり力を入れて報道されていたことが分かります。
その中で鹿の背の岩場写真が掲載されていることは、鹿の背が単なる余白の写真ではなく、大会を象徴する難所として扱われていた可能性を示しています。



なぜ現在は見えにくいのか
現在の鍋蓋山・菊水山・烏原周辺は、樹木に覆われています。
しかし、大正期の写真や登山案内を見ると、当時の神戸アルプスは、裸山、露岩、嶮悪な坂、展望のよい稜線といった印象が強かったことが分かります。
大正14年刊行の『登山と遊覧:近畿名所その附近』では、神戸アルプスについて、鍋蓋山から高山・城ヶ越山に至る区間と説明しています。
同書では、有馬街道から天王川を越えて小径に入ると「岩石陸々」とし、道はますます嶮悪を極め、ほとんど樹木のない裸山を登りつめると記されています。
この記述は、神戸新聞に掲載された「神戸アルプスの峻険な鹿の背」の写真とよく響き合います。
現在の菊水山周辺は樹木に覆われ、当時の山肌や岩場の印象は見えにくくなっています。
しかし大正期には、岩肌や山肌がより露出し、新聞写真に見えるような峻険な景観が広がっていた可能性があります。
また、現在の一般登山道は、当時の選手が通った道と完全に一致するとは限りません。
神戸アルプス縦断徒歩競争大会では、山中走路が自由とされていました。
そのため選手たちは、現在の縦走路とは異なる尾根や谷、旧道を通った可能性があります。
現在見えている山道だけでは、当時の鹿の背は見えてこないのかもしれません。
まとめ|鹿の背は問いとして残っている
神戸アルプス縦断徒歩競走大会の記事には、「神戸アルプスの峻険な鹿の背」という表現が出てきます。
その写真には、岩場を登る選手たちが写されています。
さらに、同じ岩場写真は第3回山岳競走大会の記事でも使われており、神戸新聞がこの岩場を神戸アルプスの難所を象徴する写真として扱っていた可能性があります。
一方で、大正期の登山案内には、神戸アルプス、裸山、岩石陸々、嶮悪といった表現は見えるものの、確認した範囲では「鹿の背」という語はまだ見えていません。
このことから、鹿の背は固定された正式地名というより、神戸アルプス縦断徒歩競走大会の文脈で使われた難所名、または当時の登山者・徒歩会の間で通じていた局所的な通称だった可能性があります。
現在のどこにあたるのかは、まだ分かりません。
しかし、鹿の背は単なる比喩ではなく、当時の選手たちが実際に越えた岩場・難所だった可能性があります。
本記事では、その場所を断定するのではなく、今後の現地踏査で追うべき命題として提示しました。
大正の新聞写真を持って、現在の山へ戻る。
そこから、現在は樹木や笹藪に隠れた神戸アルプスの姿が、少しずつ見えてくるかもしれません。
参考文献・確認資料
・神戸新聞「神戸アルプス縦断徒歩競走」関連記事、1922年11月〜12月。
・神戸新聞「第3回山岳競走大会」関連記事、1924年4月。
・近畿登山研究会 編『近畿の登山』ヤナギ会、1924年。
・関西体育奨励会 編『登山と遊覧:近畿名所その附近』小西猪之助発行、1925年。
・『プレイランド六甲山史』棚田真輔ほか共著、出版科学総合研究所、1984年。
・『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』兵庫県教育委員会事務局体育保健課編、兵庫県教育委員会、1979年。
・現地確認:鍋蓋山、菊水山、烏原貯水池周辺。
※菊水山のの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。


コメント