※菊水山の名称、石碑、菊水紋、登山道整備などの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。
はじめに
菊水山の南側に、かつて「臍岩(へそ岩)」と呼ばれた岩があった。
この名前は、大正期の神戸アルプス縦断徒歩競走大会や山岳競走大会の資料に登場する。しかし、これまで大きな課題だったのは、臍岩という名前は確認できても、現在のどの岩を指すのかがはっきりしなかったことである。
今回、神戸新聞のマイクロフィルムを調査したところ、1924年(大正13年)4月1日付の神戸新聞に、第3回山岳競走大会の関門写真が掲載されていることを確認した。
その中には、第4関門として「臍岩(へそ岩)」の写真が明記されていた。
これにより、これまで文献や地図上で追ってきた臍岩を、新聞写真として確認することができた。本記事では、まず第3回山岳競走大会の概要を整理し、その中で臍岩がどのように扱われていたのかを確認する。

第3回山岳競走大会とは何か
第3回山岳競走大会は、神戸新聞社が主催した山岳競走大会である。
記事によると、神戸新聞社は登山趣味を広め、健歩の風を宣揚し、健全な精神修養に資することを目的として、神戸市内に散在する登山団体・徒歩団体を集めて大会を開催していた。
この大会はすでに2回実施されており、各団体から大きな賛同を得たため、年中行事の一つとして第3回大会が行われることになった。
現在の感覚でいえば、これは単なる登山会の行事ではない。神戸新聞社が主催し、多数の登山・徒歩団体が参加し、市街地と山岳地帯を結ぶ本格的な山岳スポーツイベントだった。
のちの六甲全山縦走大会と直接制度的につながるものとまでは言えないが、神戸の山を長距離で歩き、走り、縦断する文化の前史として極めて重要である。
湊川遊園地を発着点とした約17.7kmの山岳コース
第3回山岳競走大会の出発点は、湊川遊園地新開館前広場である。
選手はここを出発し、神戸タワー南手を西へ下り、市電湊川隧道方面から山手線沿いへ進み、下山手五丁目付近から北へ折れて武徳殿前に至った。
そこから山路に入り、再度山方面、塩ヶ原、二軒茶屋、神戸アルプスの稜線、臍岩、烏原水源地を経て、再び湊川方面へ戻る。
大会記事では、競程は十一哩、つまり約17.7キロとされている。
市街地走路は指定された道を通る必要があったが、山に入ってからの走路については、選手の自由に任されていた。これは、現代の舗装されたロードレースとは異なり、当時の登山・徒歩競走が地形を読む競技でもあったことを示している。

第3回山岳競走大会のコースと5つの関門
大会では、走路上に5つの関門が設けられていた。
第1関門 武徳殿前
第2関門 塩ヶ原
第3関門 二軒茶屋
第4関門 臍岩
第5関門 烏原水源
各関門では、選手が通過証を受け取ることになっていた。通過証を集めて決勝点で提示することで、競走を完了したことを証明する仕組みである。
つまり、これらの関門は単なる地名ではなく、大会運営上の正式な確認地点であった。
なお、第1関門の武徳殿前は現在は存在しない。後年の六甲全山縦走関連資料では、出発・決勝点である湊川遊園地と混同される形で整理されているものもあるが、1924年4月1日付の神戸新聞紙面では、第1関門は「武徳殿前」と確認できる。


第3関門から第5関門までの写真
今回の調査で特に重要だったのは、関門写真の存在である。
1924年4月1日付の神戸新聞紙面には、第3関門から第5関門までの写真が縦に3枚並んで掲載されていた。
上段が第3関門「二軒茶屋」。
中段が第4関門「臍岩」。
下段が第5関門「烏原水源放水門」。
マイクロフィルムの閲覧・複写の都合上、今回取得した写真は3つに分けているが、原紙面上では縦につながって掲載されていた。
この配置は極めて重要である。
写真が単独で掲載されていたのではなく、関門順に並べられているため、中段の写真が第4関門「臍岩」に対応することが明確に分かるからである。



第4関門「臍岩(へそ岩)」を新聞写真で確認
これまで臍岩については、大正期の資料や地図に名前が出てくることは確認していた。
しかし、問題は写真である。
臍岩という名称があっても、現在のどの岩を指すのかが分からなければ、現地特定には限界がある。
今回、1924年4月1日付の神戸新聞紙面に、第4関門「臍岩」として写真が掲載されていることを確認した。しかも、第3関門「二軒茶屋」、第5関門「烏原水源放水門」と並んで掲載されているため、単なるイメージ写真ではなく、関門写真として扱うことができる。
この点が、今回の調査で最も大きな発見である。
臍岩は、単なる曖昧な通称ではなかった。
大正時代の神戸新聞社主催の山岳競走大会において、第4関門として使われた具体的な地点であり、新聞写真としても記録されていたのである。
以前の臍岩推定から、新聞写真と現地調査による再検証へ
筆者はこれまで、菊水山山頂周辺で臍岩の候補となる岩を探してきた。
大正期の大会資料では、臍岩は鍋蓋山方面から烏原水源へ向かうルート上に置かれている。さらに、当時の地図上でも、城ヶ越山、すなわち現在の菊水山付近に臍岩の表記が確認できる。
そのため、以前の記事では、文献資料と現地地形をもとに、臍岩の位置を推定した。
しかし今回、1924年4月1日付の『神戸新聞』に掲載された第4関門「臍岩」の写真を確認したことで、現地候補岩について改めて検討する必要が生じた。新聞写真に写る臍岩は、単なる地名ではなく、当時の大会関門として写真付きで紹介される明確な目印だった。
その後の現地調査では、新聞写真と形状・配置がよく似た岩を菊水山南側で確認した。現在は松や笹が生い茂り、1924年当時と同じ距離・角度から撮影することは難しいが、複数方向から撮影すると、主岩の丸み、上部のやや平坦な面、左下に付随する岩の存在など、新聞写真と共通する特徴が確認できる。
したがって、本記事では、以前の位置推定を踏まえつつ、1924年の新聞写真、現地写真、さらに地元の登山会で長年菊水山の整備に携わってきた方の証言を合わせて、臍岩候補を再検証する。
関連記事:菊水山の臍岩はどこにあったのか|大正期資料から位置を推定
なお、新聞写真確認前の位置推定については、以下の記事にまとめている。
現地で確認した臍岩候補の岩
その後、菊水山南側の現地調査で、臍岩とみられる岩を確認した。
現在、この周辺は松や笹が生い茂っており、1924年当時の新聞写真とまったく同じ距離・角度から撮影することは難しい。また、この岩は見る角度によって輪郭が大きく変わる。ある角度からは新聞写真に近い丸みを帯びた形に見える一方、近づいたり角度を変えたりすると、縦長の巨石のようにも見える。
そのため、現地では複数の方向から撮影し、主岩の形状、上部のやや平坦な面、左下に付随する岩の配置を確認した。特に主岩の左下に見える別の岩は、1924年4月1日付『神戸新聞』掲載写真に見える構成とも似ている。
さらに、地元の登山会で役員を務め、長年菊水山の整備に携わってきた方にも確認したところ、菊水山ゴルフ場側から登ると、大きな二つの岩に当たるという。今回撮影した草藪の中の岩について尋ねると、それがその岩だとの話だった。
この現地証言は、今回確認した岩が偶然見つけた無名の岩ではなく、菊水山南側の登路上で目印として認識されてきた岩であることを示している。
ただし、新聞写真の解像度や撮影条件の違いもあるため、現段階で断定は避ける。現時点では、今回確認した岩を「臍岩そのもの、または臍岩と呼ばれた岩群の一部である可能性が高い岩」として整理したい。
1枚目:新聞写真に近い角度

2枚目:大きく違って見える角度

3枚目:近接写真

4枚目:上面・周辺環境が分かる写真

5枚目:左下の副岩が分かる補助写真

他の関門写真も再確認したが、形状比較には限界がある
神戸新聞のマイクロフィルムを再確認したところ、神戸アルプス縦断徒歩競走大会の記事にも各関門の写真が掲載されていたことを確認した。
紙面では、上段に神戸アルプスの山容、下段に第三関門・鍋蓋山、第四関門・臍岩、第五関門・烏原水源地裏門の写真が横並びで掲載されている。
ただし、キャプションは写真から離れた位置にあり、初見ではどの写真がどの関門を示すのか判別しづらい構成だった。鍋蓋山の写真には人物より大きな岩が二つ写っており、当初はこれが臍岩の手がかりになる可能性も考えたが、紙面構成を確認すると、これは第三関門・鍋蓋山の写真とみられる。
一方、第四関門・臍岩の写真には人物が三人写っているものの、白黒写真で解像度も限られており、岩そのものの形状を明確に読み取ることは難しい。
したがって、現時点で臍岩の形状を比較できる最も有効な写真資料は、1924年4月1日付『神戸新聞』に掲載された第3回山岳競走大会の臍岩写真である。
1924年4月3日の大会は雨で延期
第3回山岳競走大会は、当初1924年4月3日に開催される予定だった。
しかし、1924年4月5日付の神戸新聞記事では、雨のため延期されたことが確認できる。記事では、山岳競走大会は翌4月6日に行われると報じられている。
そして1924年4月6日の大会当日記事では、神戸測候所による天候が「北の風、晴れ」とされ、午前8時半から優勝旗返還式を行い、その後、午前9時から競走を開始する流れが記されている。
このように、神戸新聞では大会の事前告知、規定、番組、延期、当日案内が連続して掲載されていた。
これは、第3回山岳競走大会が神戸新聞社にとって大きな主催行事だったことを示している。


大会結果記事は確認できなかった
大会翌日の1924年4月7日付神戸新聞は、マイクロフィルム上で欠損していた。
そのため、今回の調査では大会当日の結果記事や、実際の順位、当日の現場写真を確認することはできなかった。
これは残念ではあるが、4月1日、4月3日、4月5日、4月6日の記事によって、大会の概要、走路、関門、延期、当日実施の流れはかなり具体的に確認できた。
特に、第4関門「臍岩」の写真が確認できたことは、臍岩調査において大きな成果である。
後年資料との違い
この大会に関する写真は、後年の資料にも掲載されている。
たとえば『プレイランド六甲山史』や『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』にも、神戸アルプスや山岳競走大会に関する新聞写真が再録されている。
しかし、これらの後年資料だけでは、写真がどの紙面に掲載されたものなのか、また大会前の告知記事なのか、当日の記事なのかが分かりにくい。
今回、神戸新聞のマイクロフィルムを確認したことで、少なくとも第3回山岳競走大会の関門写真が1924年4月1日付の紙面に掲載されていたことを確認できた。
この点は重要である。
後年資料では「神戸アルプス」や「山岳競走」の写真としてまとめられていても、原紙面を確認することで、どの大会の、どの時点の記事で、どのように掲載された写真なのかが見えてくる。

六甲全山縦走大会の前史として
現在、神戸では六甲全山縦走大会がよく知られている。
第3回山岳競走大会が、現在の六甲全山縦走大会に直接制度的につながるものとは断定できない。
しかし、大正時代の神戸ではすでに、神戸新聞社主催により、神戸の市街地から山へ入り、再び市街地へ戻る大規模な山岳競走大会が行われていた。
また、1922年の神戸アルプス縦断徒歩競走大会、1924年の第3回山岳競走大会、そして1925年の六甲山脈大縦走の記録を合わせて見ると、大正期の神戸では、六甲山系を長距離で歩き、走り、縦断する文化が形成されていたことが分かる。
その意味で、第3回山岳競走大会は、六甲全山縦走文化の前史を考えるうえで重要な大会である。
まとめ
今回の調査で確定できたのは、1924年4月1日付の『神戸新聞』に、第4関門「臍岩」の写真が掲載されていたという事実である。
さらに現地調査では、新聞写真と形状・配置がよく似た岩を確認した。この岩は見る角度によって輪郭が大きく変わり、現在は松や笹に覆われているため、1924年当時と完全に同じ構図で撮影することは難しい。
しかし、主岩の丸み、上部のやや平坦な面、左下に付随する岩の存在、そして地元の登山会で長年菊水山の整備に携わってきた方の証言を踏まえると、今回確認した岩は臍岩そのもの、または臍岩と呼ばれた岩群の一部である可能性が高い。
ただし、新聞写真の解像度や撮影条件の違いもあるため、本記事では断定を避け、「臍岩候補」として整理する。
参考文献・確認資料
・神戸新聞 1922年(大正11年)11月26日付「神戸アルプス縦断徒歩競走大会」関門写真掲載紙面(マイクロフィルム再確認)。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月1日付「第三回山岳競走大会」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月3日付「第三回山岳競走大会」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月5日付「第三回山岳競走大会延期」関連記事。
・神戸新聞 1924年(大正13年)4月6日付「第三回山岳競走大会当日」関連記事。
・棚田真輔ほか共著『プレイランド六甲山史』出版科学総合研究所、1984年。
・兵庫県教育委員会事務局体育保健課編『兵庫県体育スポーツのあゆみ:明治・大正・昭和(前期)写真集』兵庫県教育委員会、1979年。
・現地確認:菊水山山頂付近、臍岩候補の岩周辺。
・聞き取り:地元の登山会で役員を務め、長年菊水山の整備に携わってきた方。
※菊水山のの全体像は、「菊水山とは何か」にまとめています。



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