福寿院夢野大師の奥の院、十三仏、電気工事記念碑、ひよどり道の全体像は、こちらのまとめ記事に整理しています。
福寿院夢野大師の境内には、ひときわ目を引く石碑がある。
電気工事記念碑である。
私は電気工事士でもあるが、これほど堂々と電気工事が記念されている碑を見たのは初めてだった。
最初は、その立派さから「電気工事慰霊碑」のようなものかと思う人もいるかもしれない。
しかし、碑にははっきりと「電気工事記念碑」と刻まれている。
山中のお寺に電気が灯ったこと。
それが当時、どれほど大きな喜びだったのか。
この碑を見ていると、その感謝と喜びが伝わってくるようだった。
この記事では、これまで判読が難しかった電気工事記念碑の建立年、山中寺院に電気を引いた当時の意味、そして石垣寄進にも名が残る松尾福太郎との関係を整理する。
【写真:電気工事記念碑の全景】

斜め側面から判読できた「昭和二年九月 建之」
これまで、この碑の建立年は判読が難しかった。
正面から見ると年号部分の風化が進み、文字の形が分かりにくい。
最初は、通常の元号ではなく、干支のような表記の可能性も考えた。
しかし今回、あらためて碑を斜め両側から観察すると、建立年がかなりはっきり読めた。
昭和二年九月
建之
昭和2年、つまり1927年の建立と考えられる。
特に「昭」の字は明瞭だった。
判読を迷わせていたのは「和」の字である。
初めは「和」の左側が、しんにょうのようにも見えていた。
しかし斜めから見ると、「和」の口の部分ははっきり確認できる。
禾偏の線が、彫りの癖や風化によってしんにょう状に見えていた可能性が高い。
そのため、現時点では「昭和二年九月 建之」と読むのが自然である。
【写真:建立年部分の斜め写真】


【写真:年号部分の拡大写真】

ご住職に伺った、山中寺院に電気を引く大変さ
この電気工事記念碑について、福寿院のご住職にもお話を伺った。
当時、この山中のお堂に電気を引くには、電柱を立て、電線を引いてくる必要があった。
現在のように簡単に電気が通る時代ではなく、福寿院夢野大師のためだけに電気を引くことは、大きな工事だったという。
地域の人々や信者が費用を出し合い、ようやく電気が通ったのかもしれない。
そう考えると、この記念碑の大きさにも納得がいく。
電気が通ったことは、単なる設備工事ではなく、山中寺院にとって大きな節目だったのだろう。
このような立派な電気工事記念碑は、これまで見たことがない。
それだけに、電気が通ったことへの感謝や喜びが、碑そのものから伝わってくるようだった。
【写真:電気工事記念碑と境内風景】

裏面に残る松尾福太郎の名と石垣寄進
電気工事記念碑の裏面には、寄進者と思われる人名が刻まれている。
その中に、松尾福太郎の名を確認できた。
松尾福太郎は、十三仏の下に残る石垣寄進銘にも名前が刻まれている。
石垣寄進
菊水町四丁目
松尾福太郎
大正十四年十一月
石匠 石松
大正14年、つまり1925年の石垣寄進である。
そして今回、昭和2年9月建立と読める電気工事記念碑にも、松尾福太郎の名が確認できた。
大正14年の石垣寄進。
昭和2年の電気工事記念碑。
同じ人物の名が両方に見えることから、松尾福太郎が福寿院夢野大師の境内整備に継続して関わっていた可能性がある。
石垣の寄進から電気工事へ。
福寿院夢野大師が、大正末から昭和初期にかけて地域や信者に支えられていたことを示す、貴重な痕跡である。
【写真:電気工事記念碑裏面の人名】

【写真:石垣寄進銘】


まとめ
福寿院夢野大師の電気工事記念碑は、斜め側面から確認すると、昭和二年九月 建之と読むのが自然だった。
山中のお寺に電気を引くことは、当時、大きな工事だったはずである。
だからこそ、その完成を記念して、これほど立派な石碑が建てられたのだろう。
さらに、裏面には松尾福太郎の名があり、同じ人物の名は大正14年の石垣寄進銘にも刻まれていた。
大正14年の石垣寄進。
昭和2年の電気工事記念碑。
この二つの痕跡から、福寿院夢野大師が大正末から昭和初期にかけて、地域や信者によって支えられていたことが見えてくる。
山中のお寺に電気が灯ったこと。
それを記念して、これほど立派な石碑を建てたこと。
そこには、当時の人々の感謝と喜びが、今も静かに刻まれている。


参考・確認事項
- 福寿院夢野大師 現地確認
- 福寿院夢野大師 ご住職への聞き取り
- 電気工事記念碑の斜め側面確認
- 石垣寄進銘「菊水町四丁目 松尾福太郎 大正十四年十一月 石匠 石松」
- 福寿院夢野大師 十三仏周辺の現地確認
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