現在の烏原貯水池の湖面の下には、かつて「烏原村」という集落がありました。
明治37年、神戸市の水道水源地建設により、烏原村は廃村となり、旧部落の大部分は池中に没しました。
現在の烏原貯水池周辺には、立ヶ畑堰堤、放水門、分水堰堤、締切堰堤、石井川水路橋など、神戸の近代水道を支えた施設群が残されています。
一方で、その景色の下には、村の暮らし、産業、寺社、墓地、伝承がありました。
本記事では、『神戸市水道史』(1910年)第十二章「烏原村舊觀」、明治期写真、現在の現地調査、そして祇園神社境内の烏原神社に残る「からすわら」の読みを手がかりに、烏原貯水池に沈んだ烏原村の姿をたどります。

烏原村とは何か
烏原村は、現在の神戸市兵庫区・烏原貯水池周辺に存在した旧村です。
『神戸市水道史』第十二章「烏原村舊觀」には、次のように記されています。
我烏原水源を作らむが為めに、明治三十七年部落を滅したる烏原村
つまり、烏原水源地を造るために、明治37年、烏原村という部落は廃されたということです。
この一文は、烏原貯水池が単なる水道施設ではなく、ひとつの村の消滅を伴って成立したことを示しています。
神戸の近代水道は、都市の衛生と発展を支えました。
その一方で、烏原村という生活空間の消滅を伴って成立した水道施設でもありました。

『神戸市水道史』が記録した「烏原村舊觀」
『神戸市水道史』(1910年)には、第十二章として「烏原村舊觀」が収録されています。
参照箇所は823ページから829ページです。
この章には、水没前の烏原村について、次のような内容が記録されています。
- 廃村当時の戸数と人口
- 住家、倉庫、納屋の数
- 村の範囲と地勢
- 農産物と産業
- 墓地
- 願成寺
- 神社
- 石塔や伝承
- 村の開拓伝承
- 所領の沿革
つまり「烏原村舊觀」は、単なる地名の説明ではありません。
水源地建設によって姿を消した村の記憶を、後世に残すための記録でもあります。
なお、本記事では旧字体・旧仮名遣いを含む原文をもとに、内容を現代向けに整理しています。
寺社縁起や開拓伝承については、すべてを歴史的事実として断定するのではなく、当時の烏原村に伝えられていた記憶として扱います。
明治37年、烏原村はなぜ廃村になったのか
烏原村が廃村となった理由は、神戸市の水道水源地建設です。
明治期の神戸は、開港都市として急速に発展していました。
人口増加、都市化、衛生環境の整備に対応するため、近代水道の整備は重要な課題となっていました。
その中で建設されたのが、烏原水源地、現在の烏原貯水池です。
烏原貯水池は、山間の谷を利用して水を蓄える施設として造られました。
しかし、その谷あいには、すでに烏原村の暮らしがありました。
そのため、水源地建設は、単に堰堤を築く工事ではなく、村そのものの移転と消滅を伴う事業でもありました。


廃村当時の烏原村の規模
『神戸市水道史』によれば、廃村当時の烏原村は、百戸に満たない小村でした。
ただし、その規模は決して小さな痕跡ではありません。
戸数、人口、建物数を見ると、そこには明確な生活共同体が存在していたことが分かります。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 戸数 | 98戸 |
| 在籍者 | 414人 |
| 男性 | 209人 |
| 女性 | 205人 |
| 現在人口 | 520人 |
| 住家 | 89棟 |
| 倉庫 | 8棟 |
| 納屋 | 38棟 |
ここでいう「現在」は、『神戸市水道史』が参照した村誌・記録上の時点を指すと考えられます。
少なくとも、烏原村には数百人規模の住民が暮らし、住家だけでなく倉庫や納屋を備えた農村集落が存在していました。
現在の烏原貯水池を歩いているだけでは、この規模感はなかなか想像できません。
しかし、湖面の下に98戸の村があったと考えると、烏原貯水池の景色はまったく違って見えてきます。
烏原村はどこにあったのか
『神戸市水道史』は、烏原村について、四方を山に囲まれ、中央にわずかな平坦地があり、人家は土地の高低に従って散在していたと記しています。
烏原村は、現在の地図上で明確に線を引けるような形では残っていません。
しかし、立ヶ畑堰堤、湖面、周囲の山林、導水路や水道施設の配置を見ていくと、かつての村がどのような地形の中にあったのかを想像することができます。

烏原村の暮らしと産業|米・麦・線香料粉
烏原村は、山間の農村でありながら、周辺都市と結びついた産業を持っていました。
『神戸市水道史』には、米、麦、大豆、菜種、竹、薪などに加え、**線香料粉**が産物として記録されています。
線香料粉とは、椨(たぶ)の皮を細かく砕いたもので、線香の主原料となるものです。烏原村産の線香料粉は品質が良く、堺・京都・大阪・東京方面へ出荷されていたと記されています。
つまり烏原村は、単なる山中の小村ではなく、線香料粉を通じて都市部の産業ともつながっていた村でした。
現在、烏原貯水池周辺で確認できる石臼状の遺物も、こうした産業史と重ねて見ると、水没した村の暮らしを考える手がかりになります。

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願成寺と烏原村の信仰
烏原村には、願成寺という寺院がありました。
『神戸市水道史』によれば、願成寺は村の北方、字中所にあり、上野山と号し、浄土宗知恩院の末寺で、本尊として無量寿仏を安置していたとされています。
今回、現在の願成寺を訪ねたところ、寺のパンフレットをいただくことができました。そこには、願成寺が「烏原(からすばら)村の住蓮坂の下、現在の烏原貯水池のほとり」にあったこと、天平年間に行基が観音立像菩薩を安置したこと、のちに住蓮坊によって復興され「願成寺」と称されるようになったことが記されています。
また、境内には平通盛とその妻・小宰相の比翼塚があり、その隣には住蓮の供養塔も確認できました。『神戸市水道史』にも、願成寺に伝わる地蔵尊像と三基の石塔婆について、通盛・小宰相局・乳母に関する伝承が記されています。
こうした縁起や石塔伝承には伝承的要素も含まれますが、重要なのは、烏原村には寺院・墓地・石塔があり、地域の信仰と死者の記憶が存在していたという点です。
その一部は、現在の願成寺境内にも受け継がれています。




祇園神社に残る烏原神社の記憶
『神戸市水道史』に記録された烏原村の記憶は、現在の祇園神社境内にも残されています。
今朝、菊水山から下山した後に祇園神社を訪れたところ、境内に烏原神社の案内板がありました。
その案内板には、烏原村に関する記述があり、烏原神社が旧烏原村の記憶を現在に伝えていることが分かります。
祇園神社は、長い石段を上った先に鎮座する神社です。
神戸の市街地に近い場所にありながら、境内には明治の歴史を感じさせる空間が残っています。
また、祇園神社は空襲でも被害を受けることなく、古い神社空間の雰囲気を現在に伝えている場所でもあります。
烏原村は貯水池建設によって旧地を失いました。
しかし、その記憶の一部は、このように神社の由緒や境内の案内板の中に受け継がれています。





「烏原」の読みは一つではない|からすはら・からすわら・からすばら
烏原という地名の読みについては、現地資料を追うほどに、一つではないことが分かってきます。
現在、神戸市の案内では「烏原立ヶ畑堰堤」に**「からすはら(たちがはた)えんてい」**という読みが示されています。
一方で、烏原貯水池堰堤に残る英文銘板には、KARASUWARA RESERVOIR と刻まれています。
さらに、祇園神社境内の烏原神社の案内板にも、**「烏原神社(からすわらじんじゃ)」**とルビが振られていました。
そして今回、願成寺でいただいたパンフレット「願成寺 縁起」には、**「烏原(からすばら)村」**と表記されていました。
つまり、現時点で確認できるだけでも、烏原の読みには次のような揺れがあります。
- からすはら:神戸市HPの表記
- からすわら:烏原神社案内板、英文銘板 KARASUWARA
- からすばら:願成寺パンフレット「願成寺 縁起」
これらのうち、どれか一つだけを「唯一正しい読み」と即断するのではなく、少なくとも烏原という地名が、資料や伝承の系統によって複数の読みで受け継がれてきた可能性を考える必要があります。
とくに、明治期の英文銘板 KARASUWARA と、祇園神社の案内板にある「からすわら」は対応関係が明確であり、願成寺の「からすばら」もまた、寺院側に継承された別系統の読みとして注目されます。



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明治期写真で見る烏原貯水池堰堤
烏原村が廃村となった後、その谷をせき止める形で水源地が整備されました。
その中心となるのが、現在の立ヶ畑堰堤です。
『神戸市水道史』には、明治期の烏原貯水池堰堤の写真が掲載されています。
堰堤外面


現在の立ヶ畑堰堤外面。明治期の写真と比較することで、神戸の近代水道施設が現在も地形の中に残っていることがわかる。
堰堤外面を見ると、烏原水源が単なる山中の貯水池ではなく、明治期の近代水道施設として設計・施工された大規模な土木構造物であることが分かります。
現在もその姿は残り、神戸の近代化を支えた水道インフラの存在感を伝えています。
堰堤内面


堰堤内面は、貯水池側から見た姿です。
外面が水を支える構造物としての迫力を示すのに対し、内面は水源地としての機能を想像させます。
現在の湖面と明治期写真を対応させることで、烏原村の谷がどのように水源地へと変わったのかが見えてきます。
放水門・分水堰堤・締切堰堤という水道施設群
烏原貯水池は、堰堤だけで成り立つ施設ではありません。
水を貯める堰堤、水を逃がす放水門、水の流れを分ける分水堰堤、濁水の流入を調整する締切堰堤などが組み合わさった、水道施設群として見る必要があります。
『神戸市水道史』のコマ番号11には、次の施設が記録されています。
- 放水門放水路締切堰堤
- 烏原水源木谿分水堰堤
- 烏原水源放水門

このうち、放水門放水路締切堰堤の写真では、背後に多くの建物が点在しているように確認できます。
ただし、この写真は堰堤竣工後に掲載されたものであるため、写っている建物をすべて旧烏原村の家屋と断定することはできません。
旧村の残存建物であった可能性のほか、工事関係者の建物、水源管理に関わる施設、あるいは水車場などであった可能性も考えられます。
それでも、この写真は、烏原水源建設前後の谷あいに建物群が存在していたことを示す重要な視覚資料です。
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まとめ|烏原貯水池は水道施設であり、村の記憶でもある
烏原貯水池は、神戸の近代水道を支えた重要なインフラです。
立ヶ畑堰堤、放水門、分水堰堤、締切堰堤、導水路、水路橋など、周辺には明治期以降の水道施設群が今も残されています。
しかし、その湖面の下には、烏原村という集落の暮らし、産業、寺社、墓地、伝承がありました。
『神戸市水道史』の「烏原村舊觀」は、水源地建設によって姿を消した村の記憶を後世に残す記録です。
さらに現在も、願成寺には「烏原(からすばら)村」の記述が残り、祇園神社境内の烏原神社には「からすわら」のルビが確認できます。
烏原貯水池堰堤の英文銘板 “KARASUWARA RESERVOIR” も含めて見ると、「烏原」という地名は、単なる地図上の名前ではなく、複数の場所に記憶として受け継がれていることが分かります。
現在の烏原貯水池を歩くとき、そこは静かな水辺の散策路であると同時に、神戸の近代化と、失われた村の記憶が重なり合う場所でもあります。
参考文献・出典
- 神戸市編『神戸市水道史』1910年
- 『工業之大日本』3巻2号、工業之大日本社、1906年2月、コマ番号17
- 祇園神社境内「烏原神社」案内板。現地確認(2026年)
- 烏原貯水池・立ヶ畑堰堤・放水門・分水堰堤・締切堰堤・祇園神社・烏原神社、現地撮影現地確認(2026年)
- 願成寺「願成寺 縁起」パンフレット。2026年5月現地入手。
- 願成寺境内「平通盛とその妻・小宰相の比翼塚」案内板。現地確認(2026年)
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