はじめに|失われかけていたのは、作品ではなく「記録」だった
新開地商店街の入口に立つ巨大な鉄の造形物「コワレ・サビ」。
前回の記事では、長年その正体がよく分からなくなっていたこの造形物を調査し、作者が建築家・竹山聖氏であること、1999年に制作されたこと、阪神・淡路大震災後の新開地のまちづくりと深く関係する作品であることを紹介しました。

調査を始めた当初、新開地のまちづくりに長年携わっている「新開地まちづくりNPO」に問い合わせました。
同NPOによると、この造形物を設置したのはNPOではなく、数年前にも行政や地元関係者へ確認したものの、詳しい経緯までは分からなかったとのことでした。
しかし、その後、作者である竹山聖氏本人と連絡が取れました。
そして2026年9月、竹山氏が京都の事務所で、30年近く前の資料を探してくださいました。
そこから出てきたのは、「コワレ・サビ」の覚え書き、設計図、模型、数多くの手描きスケッチ、震災前の新開地建築デザイン委員会の資料、そして1998年の新開地アートゲートを紹介した雑誌記事でした。
さらに、発注者、施工者、工事費まで判明しました。
今回の記事では、作品の良し悪しを論じるのではなく、竹山氏の手元に残されていた一次資料と2026年現在の新開地を照合しながら、失われかけていた街の記録をもう一度つないでいきます。
雨の新開地スカイゲート

震災前から始まっていた「新開地建築デザイン委員会」
今回提供いただいた資料の中に、1993年の『DESIGN TOWN SHINKAICHI―デザインタウン・新開地をめざして』があります。
これは、新開地建築デザイン委員会と神戸市による、震災前のまちづくり・建築デザインの取り組みを伝える資料です。
ここから重要なことが分かります。
新開地のアートや都市デザインを軸としたまちづくりは、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに突然始まったものではありません。
震災以前から、新開地という街をどのような景観にしていくのか、建築と街全体をどう結びつけるのかという議論が続けられていました。
竹山氏自身も、
「私は、震災前から『新開地建築デザイン委員会』に参加していました。その縁で、こうした仕事を頼まれました」
と振り返っています。
『DESIGN TOWN SHINKAICHI』表紙・見開き

竹山聖氏のモデル地区提案

1998年「アートゲート」から「スカイゲート」へ
震災後、新開地には現在のスカイゲートにつながる新しいアーケードが建設されました。
しかし竹山氏によれば、震災前の新開地建築デザイン委員会では、むしろ既存のアーケードを取り外すことも議論されていたそうです。
そのため、震災後になって再びアーケードをつくることについて、
「今になってまたアーケードをつくる、というのはどうか」
という議論がありました。
その中から、単なる「アーケード」ではなく「アートゲート」と呼んではどうかという案が生まれます。
その後、名称が公募され「スカイゲート」となりました。
竹山氏自身にも「空のゲート」という意識があり、当時のCD-ROM作品集のタイトルも「空の建築」だったといいます。
スカイゲート初期検討図

ゲートと街路の平面検討

アートゲート透視図

資料には現在のスカイゲートにつながる複数のスケッチや完成イメージが残されています。
当初はプレコン案だった|なぜ鉄のゲートになったのか
現在のスカイゲートは鉄を主体とした構造ですが、最初からこの方法が決まっていたわけではありません。
竹山氏によると、当初はプレキャストコンクリート、いわゆる「プレコン」による計画でした。
しかし商店街では、店舗の正面に柱が来ないよう、それぞれの場所に合わせた細かな寸法調整が必要になります。
プレコンではその対応が難しかったため、最終的に鉄で製作する方向へ変わったと竹山氏は記憶しています。
こうした設計変更の経緯も、完成した建築を見ているだけでは分からない記録です。
日比野克彦「人間が何よりも伝えなくてはいけないこと。」
今回、スカイゲートについてもう一つ重要な事実が分かりました。
スカイゲートの床面に現在も残る色鮮やかな石絵は、現代美術家・日比野克彦氏による作品です。
その作品タイトルは、
「人間が何よりも伝えなくてはいけないこと。」
です。
竹山氏本人に改めて確認したところ、この言葉が日比野氏の床の石絵そのものの作品タイトルであることが確認できました。
興味深いことに、完成当時の『ヴァンテーヌ』1998年6月号では、
ARCHITECTURE
人間が何よりも伝えなくてはいけないこと。
神戸新開地アートゲート
と、この作品名が誌面の大きな見出しにも使われています。『ヴァンテーヌ』1998年6月号

出典:『ヴァンテーヌ』1998年6月号
2026年現在の日比野克彦氏の床の石絵

私自身、これまで何度も新開地を歩いていましたが、この床の模様が日比野克彦氏の作品であることを知りませんでした。
作品そのものは現在も残っています。
しかし、作者や作品名、制作された背景は、街を歩いているだけではほとんど分かりません。
1999年「MEMORY FACTORY 1999/コワレ・サビ」
スカイゲート入口の小広場には、翌1999年、「コワレ・サビ」が完成します。
竹山氏の設計資料には、
MEMORY FACTORY 1999
KOWARE・SABI
記憶の工場1999
コワレ・サビ
と記されています。
資料には「場所性」「空間性」「象徴性」「移行性」「建築化」という五つの計画主旨が記され、単独の彫刻というより、小広場や背後の建築まで含めた都市空間として構想されていました。
「新開地3丁目 モニュメント」表紙

1998年7月9日付「覚え書き」

「コワレ/時間の早回し」——震災が露わにしたもの
1998年7月9日の覚え書きで、竹山氏は1995年1月17日の阪神・淡路大震災を、都市の崩壊のプロセスを一気に加速させた「時間の早回し」として捉えています。
そこに記されているのは、建物の破壊だけではありません。
都市中心部の商店街、共同体、高齢者や障害者との共存、子どもの教育、産業構造、そして都市と自然の関係。
震災によって、それまで都市が抱えていた問題が一気に表面化したと竹山氏は考えていました。
さらに覚え書きでは、表面だけを清潔で安全な状態に整える「コンビニ的都市環境」への強い疑問も示されています。
朽ちるもの、汚れるもの、壊れるものを人間から遠ざけるのではなく、その現実と向き合う。
そこから「コワレ」という思想が生まれています。
竹山氏は、
もの・人・自然みんな朽ちてゆくものだということを、そして、だからこそ再生の希望を持ち、それに向けて努力することが尊い
という考えを記しています。
「サビ/記憶の襞」——都市の中に記憶を残す
「サビ」は単なる表面処理ではありませんでした。
竹山氏は、錆びた鉄板の壁と床による小広場を「都市の床の間」に例えています。
日本の床の間が、一幅の掛け軸や一輪の花によって人の想像力を誘うように、巨大な錆びた鉄板を都市の街角へ置くことで、人が立ち止まり、神戸や都市、そして人間の過去・現在・未来へ思いを向ける場所をつくろうとしたのです。
そこには、完成した瞬間を固定して保存するのではなく、時間によって変化し続けること自体を作品へ取り込む考えがありました。
覚え書きには、雨についても記されています。
雨に濡れた鉄板から人々の足跡が街へ続き、錆は日々表情を変え、日差しや空気にも反応する。
その文章を読んだ翌朝、神戸は雨でした。
2026年9月11日、雨の「コワレ・サビ」へ
せっかくなら、雨の状態を自分の目で確認しておきたい。
そう思い、早朝の人通りの少ない新開地へ足を運びました。
撮影したのは、スカイゲート、「コワレ・サビ」、現地キャプション、そして日比野克彦氏の床の石絵です。
雨に濡れた「コワレ・サビ」

現地キャプション

出典:筆者撮影
スケッチをたどる|完成する前の「コワレ・サビ」
今回の資料で特に興味深かったのが、完成する前のスケッチです。
竹山氏の事務所には、現在の「コワレ・サビ」に至るまでのさまざまな線が残されていました。資料にも「スケッチや図面がいっぱい保管されていました」と記されています。
小広場全体の構想

カラーによる空間検討

色を加えながらスカイゲート、「コワレ・サビ」、周辺のアートや植栽を検討した図。資料提供:竹山聖氏
設計図

資料提供:竹山聖氏
発注者・施工者・工事費まで判明
竹山氏が京都の事務所で資料を確認したことで、これまで分からなかった事業上の記録も判明しました。
| 項目 | コワレ・サビ | アートゲート/スカイゲート |
|---|---|---|
| 設計・作者 | 竹山聖 | 竹山聖 |
| 発注者 | 住宅都市整備公団関西支社 | 新開地センター共同組合 |
| 施工 | 松村組 | 資料上は川崎工機※ |
| 竣工 | 1999年6月 | 1998年4月 |
| 工事費 | 315万円 | 2億4,300万円 |
| 関連作品 | ― | 日比野克彦「人間が何よりも伝えなくてはいけないこと。」 |
竹山氏が確認した事務所資料には、《コワレ・サビ》は住宅都市整備公団関西支社発注、松村組施工、1999年6月竣工、工事費315万円と記録されています。アートゲートは1998年4月竣工、工事費2億4,300万円、床の石絵は日比野克彦氏によるものとされています。
※アートゲートの施工者については、設計組織アモルフの作品リストには「川崎工機」と残されています。一方、竹山氏本人と当時のスタッフには「川崎重工と一緒にやった」という記憶があり、竹山氏自身も川崎重工だった可能性を指摘しています。現段階では両方の記録を残しておきます。
また、「コワレ・サビ」の竣工時期についても、竹山氏の事務所資料では「1999年6月竣工」、現在の現地キャプションでは「1999年7月建造」と、1か月の違いがあります。
これも無理にどちらかへ統一せず、二つの記録を併記しておきます。
1990年代のスケッチと2026年の新開地を重ねる
今回の記事では、可能な限り、1990年代の設計資料と2026年現在の同じ場所を並べて掲載したいと思います。
スカイゲート


設計段階のスカイゲートと約30年後の現在。山形フレームの連続と「空」が見える構成は現在も残る。
コワレ・サビ


竹山聖氏の構想段階の「コワレ・サビ」と、時間を経た現在の姿。
新開地に眠っていた記録を、もう一度つなぐ
今回の調査で分かったのは、作品そのものが失われていたのではないということでした。
スカイゲートは現在もある。
日比野克彦氏の「人間が何よりも伝えなくてはいけないこと。」も、今も人々の足元に残っています。
「コワレ・サビ」も、新開地の入口に立ち続けています。
失われかけていたのは、
誰が、なぜ、どのような議論を経て、何を考えてこの場所をつくったのかという記録でした。
新開地まちづくりNPOでも、行政や地元関係者へ確認したものの、詳しい経緯まで分からなくなっていました。
しかし、作者である竹山聖氏の京都の事務所には、30年近く前の覚え書き、スケッチ、図面、模型、冊子が残されていました。
今回、それらの資料と現在の新開地を重ねることで、震災前から続いていた新開地の都市デザイン、阪神・淡路大震災後の復興、アートゲートからスカイゲートへの流れ、「コワレ・サビ」、そして日比野克彦氏の床の石絵までが、再び一本の線としてつながりました。
街の歴史は、建物や作品が残っているだけでは継承されません。
そこに関わった人の記憶、議論、図面、言葉があって、初めて「なぜここにあるのか」が分かります。
この記録が、地域で暮らす方々、そしてこれから新開地を歩く人にとって、新開地の記憶を次の世代へ渡す一つの資料になればと思います。
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