福寿院夢野大師の案内板には、明治末年の湊川改修工事で川底から掘り出された石仏が、現在は「奥の院」に祀られていると記されている。
しかし、境内を歩いても、その奥の院がどこにあるのか分からなかった。
本堂の奥なのか。
境内の奥なのか。
それとも、山の中なのか。
前回、烏原貯水池からひよどり道を歩き、福寿院夢野大師を訪ねた時、この一文がずっと気になっていた。
後日、ご住職に話を伺い、改めて現地を確認したことで分かった。
福寿院夢野大師の奥の院は、本堂の奥ではなく、ひよどり道の途中にあった。
福寿院夢野大師の案内板

表記について
本記事では「奥の院」で表記を統一する。
現地案内板には「奥の院」と書かれている。一方、ひよどり道途中の石堂上部には風化があり、「奥」と「院」の文字は確認できるが、中間の文字は判読しにくい。
「奥之院」と刻まれていた可能性もあるが、現時点では断定しない。この記事では、案内板の表記に合わせて「奥の院」とする。
石堂上部の「奥」「院」の銘

案内板に記された湊川改修工事の石仏
福寿院は、神戸市兵庫区鵯越筋にある真言宗の寺院で、「夢野大師」「石大師」とも呼ばれている。
境内の案内板には、明治末年の湊川改修工事で川底から掘り出された石仏を、開山和尚である徳順尼が受け、下沢通あたりで祀っていたとある。
その後、仏様が夢枕に立ち、鵯越の山中に庵を建てて祀るよう告げたという。案内板の最後には、こう記されている。
現在は奥の院にてお祀りされています。
この一文が、今回の出発点だった。
案内板を読めば、湊川改修工事で見つかった石仏が奥の院に祀られていることは分かる。しかし、現地を歩いただけで、その場所をすぐに見つけるのは難しかった。
案内板の「現在は奥の院にてお祀りされています」の部分
キャプション:案内板には、湊川改修工事で見つかった石仏が現在は奥の院に祀られていると記されている。

関連記事:

朝6時、ご住職に話を伺う
この日は、ひよどり展望公園から福寿院夢野大師へ向かった。
初めて歩く道だったが、思っていたよりも福寿院までは近かった。目的は、案内板に記された「奥の院の石仏」を確認することだった。
福寿院に着いたのは朝6時ごろ。
本堂を訪ねると、奥にご住職と思われる方がいらっしゃった。
「おはようございます」と声をかけたが、すぐには気づかれなかった。しばらくして、「どなたですか」と尋ねられた。
朝6時である。突然の参拝者を怪しまれるのは当然だと思う。
「参拝者です」と伝え、案内板に書かれていた奥の院の石仏について伺った。すると、ご住職は突然の訪問にもかかわらず、奥の院や石仏の由緒について丁寧に話してくださった。
福寿院夢野大師の本堂

川の近くに置かれていた石仏
ご住職の話では、その石仏は工事後、当初は川の近くに置かれたままになっていたという。それを、この寺を開いた方が家に持ち帰り、祀るようになったそうだ。
すると、塚本あたりの人たちがその石仏を拝みに来るようになった。大変ご利益があるとされ、次第に多くの人が訪れるようになったという。
その後、夢枕にお告げがあった。
ひよどり越の下山途中、山の中に場所がある。そこに小さなお堂を建てて祀ってほしい。
そのような伝承を経て、鵯越の山中にお堂が建てられたという。
つまり、福寿院夢野大師の始まりには、湊川改修工事、川の近くに置かれていた石仏、下沢通や塚本周辺の人々の信仰、そして鵯越の山中へ移された夢枕の伝承が重なっている。
ご住職のお話では当時、本堂があった場所(現在は「兵神 菊水講」が鎮座)

奥の院は本堂の奥ではなく、ひよどり道の途中にあった
奥の院という名前から、最初は本堂の奥や境内の奥にあるものだと思っていた。
しかし、ご住職によると、奥の院は本堂の建物の奥ではない。山の奥にあるという。
その場所は、これまで何度も歩いていたひよどり道の途中だった。
烏原貯水池、ひよどり道、ひよどり展望公園、福寿院周辺は、何年にもわたって歩いてきた。ひよどり道から福寿院へ至るルートも一つではない。
それでも、そこが福寿院夢野大師の奥の院だとは気づいていなかった。
何度も歩いた道だったが、案内板の一文、ご住職の話、石堂の刻字がつながるまで、その意味を見落としていた。
ひよどり道の案内指標

先行する参拝記録でも特定が難しかった奥の院
ネット上には、福寿院夢野大師を丁寧に参拝された記録もある。そこでも境内や裏山の石祠、四国八十八ヶ所の祠、ご住職から聞いた話が詳しく紹介されていた。
一方で、案内板に記された「奥の院」が、ひよどり道途中のどの石堂を指すのかまでは、少なくとも私が確認した範囲では明確に特定されていなかった。
境内には石仏や石祠が多く、山道にも複数の石堂が残っている。知らずに歩けば、どれが案内板に記された奥の院なのか判断するのは難しい。
今回、ご住職に直接伺い、改めて現地を確認したことで、ひよどり道途中の石堂が案内板に記された「奥の院」に対応する場所であることが分かった。

ひよどり道に残る奥の院の石堂
ご住職に教えていただいた場所へ向かった。
ひよどり道の途中、山道の脇に石堂がある。周辺にはほかにも石堂や石仏があり、最初はどれが奥の院なのか判別しにくかった。
石堂の上部をよく見ると、風化しながらも「奥」と「院」の文字が確認できた。
案内板の一文。
ご住職の話。
石堂上部の「奥」「院」の文字。
それらがここでつながった。
ひよどり道途中の奥の院全景

【写真挿入:石堂上部の「奥」「院」の銘】
石堂上部

奥の院に祀られる三体の石仏
奥の院は、石仏を囲むように石堂で覆われている。中には三体の石仏が祀られていた。
中央の石仏には「右」と刻まれている。その下には「奉納」と刻まれた石の段があり、石仏はその上に鎮座していた。
三体のうち、どれが湊川改修工事由来の石仏なのかは、現地では特定できなかった。
ただし、案内板とご住職の話によれば、湊川改修工事で見つかったと伝わる石仏は、この奥の院に祀られているという。
奥の院内の三体の石仏

大正四年建之の銘
奥の院の石堂には、「大正四年建之」と刻まれていた。
大正4年は1915年である。
前回、福寿院境内では「大正十四年十一月」と刻まれた石垣寄進銘を確認している。奥の院の石堂は、それよりも古い。
石堂には、志願人、発起人、寄付者、世話人など、多くの人名も刻まれていた。当時、この石仏を祀ることに多くの人々が関わっていたことがうかがえる。
奥の院の石堂に刻まれた「大正四年建之」の銘。大正4年、1915年に建立されたことが分かる。
志願人・発起人・寄付者・世話人の名前が刻まれた部分

左隣にある第七十五番善通寺の石堂
奥の院の左隣にも、立派な石堂がある。
左右には灯籠が置かれ、中には二体の石仏が祀られている。造りも堂々としており、最初はこちらを奥の院と見間違えそうになった。
石堂上部には、次のように刻まれていた。
七十五番善通寺
やくし如来
四国八十八ヶ所第七十五番札所・善通寺を写した石堂と考えられる。善通寺の本尊は薬師如来であり、福寿院夢野大師の山中に残る四国八十八ヶ所写し霊場の一部だろう。
仏像の下部には、判読できる範囲で次の名前が刻まれていた。
發起人:伊東亀吉、小林太三郎、松平嘉平、板倉源次郎
世話人:長谷川金兵衛、大田金市、柏原半太郎、高橋治平、田村与六造、長井茂兵衛、篠原滝次郎、榊原達次郎
建立:大正九年十一月建
奥の院の石堂が大正4年建立であるのに対し、この善通寺の石堂は大正九年、1920年の建立である。
この一帯では、大正初期から奥の院だけでなく、四国八十八ヶ所信仰に関わる石堂も整えられていたことが分かる。
奥の院左隣の石堂全景

「七十五番善通寺」「やくし如来」の銘

大正九年十一月建の銘

石堂内の二体の石仏

六年前の記憶と現在の様子
この周辺は、今回初めて歩いた場所ではない。
六年前にも、ひよどり道や福寿院周辺を歩いた記録が残っている。
当時の写真を見返すと、山中の石仏や石祠は、今よりも崩れていた印象がある。今回歩いた時には、以前より整理されているように感じた。
ただし、石仏が崩れていた理由については、現時点では断定できない。
昭和13年阪神大水害によるものなのか。
1995年の阪神・淡路大震災によるものなのか。
あるいは長年の風雨、斜面の変化、倒木などによるものなのか。
ここは今後の確認課題である。
2020年のひよどり道周辺、石仏の写真


昭和13年阪神大水害と空襲の記憶
福寿院夢野大師について、山下道雄ほか共著、神戸新聞出版センター、1985年9月刊行資料には、昭和13年の風水害で参道が崩れ、その後お参りがすたれていったと記されている。
ご住職のお話でも、昭和13年、つまり1938年の阪神大水害の被害は大きかったという。
参拝道が大きく崩れただけではなく、その途中の少し下の方にあった家が流され、亡くなられた方もいたと伝え聞いているそうだ。お堂自体は流されなかったが、下にあった階段状の石などは濁流で流されたと聞いているという。
また、ご住職からは本堂が戦災を免れた話も伺った。
空襲の際、本堂の庇付近に焼夷弾が落ちたが、周囲の人が消し止めたため、焼失を免れたという。
福寿院夢野大師の本堂や石造物は、こうした災害や戦災を越えて現在まで残されてきた。
福寿院本堂外観

現在の福寿院参道の写真

福寿院夢野大師から下る参道。昭和13年阪神大水害では参拝道が大きく崩れたと伝わる。
デジタル未開発ゾーンとしての福寿院・奥の院
福寿院夢野大師の奥の院は、ご住職にとっては当然の場所である。
しかし、一般の参拝者やハイカーにとっては非常に分かりにくい。本堂や境内を参拝しただけでは、奥の院がひよどり道の途中にあるとは分からない。
ネット上にも、この石堂を福寿院夢野大師の奥の院として詳しく紹介した情報は、少なくとも私が確認した範囲では見当たらなかった。
現地には確かにある。
しかし、ネット上では十分に整理されていない。
福寿院夢野大師の奥の院は、神戸の山道に残された「デジタル未開発ゾーン」といえる。
ネットに情報がないから、歴史が存在しないわけではない。現地を歩き、人に聞き、石に刻まれた文字を読むことで、初めて見えてくる歴史がある。
奥の院とひよどり道の位置関係



ひよどり道沿いにある様々な石仏の数々2

何年も歩いたから見えてきたもの
今回の発見は、一度だけ福寿院を訪ねて気づいたものではない。
烏原貯水池、ひよどり道、ひよどり展望公園、福寿院夢野大師周辺を、何年にもわたって歩いてきた。過去の写真も見返した。ご住職にも話を伺った。
その上で、ようやく案内板の一文と、ひよどり道途中の石堂がつながった。
奥の院は、目立つ観光地ではない。
知らなければ通り過ぎてしまう山道の一角にある。
しかしそこには、湊川改修工事、塚本周辺の人々の信仰、夢枕の伝承、大正初期の石堂建立、昭和13年阪神大水害の記憶が重なっている。
神戸の山道には、まだこうした「見えているのに、見えていなかった歴史」が残っている。
福寿院奥の院

関連記事
ひよどり道から福寿院夢野大師へ
烏原貯水池からひよどり道を歩き、福寿院夢野大師を訪ねた前回記事。境内の石仏、石碑、十三仏、高野山奥ノ院遥拝塔、大正十四年の石垣寄進などをまとめている。
菊水山・烏原周辺の山道整備
菊水山や烏原周辺の山道は、地元の方々によって長く整備されてきた。福寿院夢野大師の奥の院が残るひよどり道も、こうした山道文化の延長線上にある。
神戸の山中に残る信仰の痕跡
福寿院夢野大師の奥の院、四国八十八ヶ所写し霊場、高野山奥ノ院遥拝塔など、神戸の山中には今も地域信仰の痕跡が残っている。
参考・確認情報
- 福寿院夢野大師 現地案内板
- 福寿院夢野大師 ご住職への聞き取り
- 山下道雄ほか共著、神戸新聞出版センター、1985年9月刊行資料
- 現地確認:2026年5月
- 過去撮影写真との比較確認
烏原貯水池・烏原水源の全体像は、こちらにまとめています。



コメント