菊水山の名はいつ成立したのか|昭和10年5月の神戸新聞から検証

昭和10年5月20日の神戸新聞に掲載された菊水紋。山肌に若松で紋が描かれている。

神戸市兵庫区と北区の境にある菊水山。
湊川神社の背後にそびえるこの山は、現在では当たり前のようにその名で呼ばれている。

日の出と石碑 20260322


※菊水山山頂の石碑(2026年3月撮影)

しかし、この「菊水山」という名称は、いつ、どのように生まれたのか。

中央図書館で大楠公六〇〇年祭当時の神戸新聞を調査する中で、
その起点となる日を特定することができた。

昭和10年(1935年)5月20日。

この日、城ヶ越山の山上で大規模な植樹式が行われ、
山肌に菊水紋を描く事業が始まっている。

そして神戸新聞はその翌日、
すでにこの山を**「菊水山(紋章山)」**として報じていた。


※本記事では、当時の新聞記事をもとに構成しています。
原文は旧仮名遣いや判読困難な箇所があるため、一部を現代語に改め、劣化の激しい部分は割愛しています。
※本文は神戸新聞原文を再確認し、一部表現を修正しています。


目次

神戸新聞(昭和10年5月21日)が伝えた「産声あげた菊水山」

神戸新聞

見出し
「産声あげた菊水山
新緑の風に飜る
二万本の菊水旗
今日、城ヶ越山に市民代表学童が
赤誠凝れる植樹式」

この見出しにおいて、すでに重要な事実が確認できる。

従来「城ヶ越山」と呼ばれていた山が、
この時点で「菊水山」として報道されている。

しかも表現は、
**「産声あげた菊水山」**である。

これは単なる呼称の紹介ではなく、
この日をもって新しい象徴的な山が誕生したことを示している。


菊水山の名が立ち上がった起点

記事本文では、大楠公六〇〇年祭を記念し、
神戸市内の小学校児童が関わる大規模事業として、
錨山・市章山に対する存在として「菊水山(紋章山)」を建設する計画が記されている。

そして植樹式は、昭和10年5月20日午前10時、城ケ腰山の山上で行われた。

※「城ヶ越山」の読みについては、大正期〜昭和初期の文献で複数の表記が確認されており、
統一された読みが存在しないことが分かっています。

詳細な検証記事はこちら👇

城ヶ越山の読みは何か|大正・昭和初期文献と神戸新聞から検証

ここで重要なのは、
翌5月21日の神戸新聞において、すでに「菊水山」として報道されている点である。


この植樹式を契機に、新聞上では『菊水山』という名称が成立していたと考えられる。

👉 菊水山という名称の成立の起点は、昭和10年5月20日の植樹式にある可能性が高い。


都市の象徴として設計された山

神戸新聞は菊水山を、
市章山・錨山に対する存在として位置づけている。

つまり菊水山は、

👉 自然に名付けられた山ではなく
👉 都市の象徴として設計された山

であった。


約2万本の菊水旗で描かれた菊水紋

植えられた菊水旗は、

・東西40間(約72.7メートル)
・上下40間(約72.7メートル)
・菊水旗は約2万本

植樹された松の本数は明記されていない。

※1間=約1.82メートル換算

事前に測量し、網を張り、赤旗で位置を指定したうえで、
児童たちが植えていった。

👉 山そのものを使った巨大な記号の構築


山肌に浮かび上がる菊水紋

神戸新聞

今回確認できた写真では、
山肌に菊水紋がはっきりと浮かび上がっている。

このことは、神戸新聞に記された計画が、
実際に視認可能な景観として成立していたことを示している。


現地から見た菊水山

毎朝この山を歩き続けていると、
この石碑や山の成り立ちに対して、自然と疑問が湧いてくる。


昭和10年の新聞が示す時代の空気

昭和10年5月の神戸新聞は、
大楠公六〇〇年祭一色であった。

首相をはじめとする祝辞が掲載され、
紙面全体に強い高揚感が漂っている。


現時点で確認できる事実

・昭和10年5月20日、城ケ越山で植樹式が行われた
・翌5月21日の神戸新聞で「菊水山」として報道
・約2万本の菊水旗で菊水紋を形成
・都市景観として構想された山


まとめ

2026年3月22日撮影

※毎朝300日以上通い続けて撮影した菊水山山頂の石碑と朝日

菊水山の名は、自然に定着したものではない。

👉 植樹式という出来事を契機に、社会的に立ち上がった名称である可能性が高い。

昭和10年5月20日。
この日、城ヶ越山は「菊水山」として産声をあげた。

なお、行政上の正式名称変更時期については、別途検証が必要である。


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参考文献

・神戸新聞 昭和10年5月21日
・現地調査

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