和歌山県加太の沖、紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島。
友ヶ島と聞いて、まず思い浮かぶのは赤レンガの砲台跡ではないでしょうか。
しかし、訪問を前に古い資料を調べてみると、この島には砲台だけではない、いくつもの歴史が重なっていることが分かりました。
修験の行場があり、幕末には海防の拠点となり、明治には洋式灯台が建てられ、その後は近代要塞として整備されました。
さらに、森林と海に囲まれた豊かな自然も、古くから友ヶ島の大きな魅力として捉えられてきました。
今回は、テレビ和歌山編『紀州路をゆく』と、和歌山市教育委員会編『覆刻社会教育資料(文化財調査記録)』を手がかりに、現地を歩く前に知っておきたい友ヶ島の姿を整理します。
友ヶ島は4つの島の総称
現在、友ヶ島は沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4島の総称です。
定期船は加太港から、砲台跡や友ヶ島灯台がある沖ノ島の野奈浦桟橋へ向かいます。
一方、『紀州路をゆく』(1975)の「友ヶ島の魅力」では、地ノ島と沖ノ島を合わせて一般に友ヶ島と紹介しています。古い資料を読む際には、現在の呼称との違いにも注意が必要です。

地図を見ると、沖ノ島と地ノ島の間には中ノ瀬戸、地ノ島と加太の間には加太ノ瀬戸があります。
まずこの位置関係を頭に入れておくと、なぜ友ヶ島が航路や海防のうえで重要だったのかも理解しやすくなります。
砲台より古い「修験の島」
友ヶ島の歴史は、近代要塞から始まったわけではありません。
『紀州路をゆく』では、沖ノ島の北側に位置する虎島について、役行者にまつわる修験の行場があることを紹介しています。
断崖には行場があり、「五所の額」と呼ばれる大きな文字が刻まれているとも記されています。
また、島内の深蛇池についても、大蛇が住んでいたという伝説とともに、池の中ほどに修験者の護摩場跡が残ると紹介されています。
つまり、赤レンガの砲台が造られるはるか以前から、この島の険しい地形には人々が特別な意味を見いだしていました。
現地では、
「なぜ修験者は、この島を行場に選んだのか」
という視点でも地形を見てみたいところです。
なぜ友ヶ島に砲台が造られたのか
友ヶ島を理解するうえで重要なのが、紀淡海峡の中にあるという位置です。
幕末になると外国船の来航を背景に海岸防備が重視され、友ヶ島にも砲台が設けられていきました。
『紀州路をゆく』には、幕末に勝海舟を友ヶ島へ迎えて海防計画を立てさせたことも記されています。
さらに勝海舟は、沖ノ島と地ノ島の間の瀬戸を埋め、二つの島を陸続きにする構想を立てたものの、実現しなかったと紹介されています。
現地では砲台を見る前に、まず海峡を見てみたいと思います。
ここは大阪湾へ通じる入口である。
そう考えて地形を見ると、なぜ友ヶ島が海防上重要だったのかが見えてきそうです。
砲台と灯台――同じ海峡を見つめた二つの施設
友ヶ島には砲台だけではなく、友ヶ島灯台があります。
『紀州路をゆく』では、外国人技師によって建設された明治初期の洋式灯台として紹介され、紀淡海峡と島の緑を望む景観についても触れています。
ここで興味深いのは、砲台と灯台の役割です。
砲台は海から来る脅威に備える施設。
一方、
灯台は海を行く船を安全に導く施設。
役割は正反対ですが、どちらもこの紀淡海峡が重要な場所だったからこそ造られました。
現地では灯台そのものだけでなく、そこから見える海や航路にも注目してみたいと思います。
砲台跡では「大砲以外」を見る
友ヶ島というと砲台跡が注目されますが、『紀州路をゆく』を読むと、要塞は大砲だけで成り立っていたわけではないことが分かります。
資料には、
弾薬庫、糧秣倉庫、発電所、練兵場、兵舎跡
などについても記されています。
兵士が常駐する以上、弾薬を保管し、食料を確保し、電気を供給し、訓練し、生活する場所が必要でした。
そのため現地では、
「ここに大砲があった」
だけではなく、
「この施設は要塞の中でどんな役割を担っていたのか」
という視点を持って歩いてみたいと思います。
『紀州路をゆく』には、1970年代当時の砲台跡と赤レンガの弾薬庫跡の写真も掲載されています。
今回は資料写真そのものを転載せず、現地では可能であれば古写真と同じ場所や近い構図を探してみる予定です。
松の木に残るという戦争の痕跡
今回の事前調査で、特に気になったものがあります。
松の幹に残る傷跡です。
『紀州路をゆく』には、島内の松の幹に残る矢印のような傷について、戦争中に松根油を採取した跡だと記されています。
巨大な砲台や赤レンガの弾薬庫なら、予備知識がなくても目に入ります。
しかし、一本の木に刻まれた傷は、知らなければそのまま通り過ぎてしまいます。
1975年当時に記録されていた痕跡が、現在も残っているのか。
これは現地でぜひ確認してみたいポイントです。
軍事遺構だけではない、友ヶ島の自然
『紀州路をゆく』の「友ヶ島の魅力」は、砲台から話を始めているわけではありません。
冒頭では島の森林や植物、鳥類、魚介類などに触れ、豊かな自然そのものを友ヶ島の魅力として紹介しています。
さらに、和歌山市教育委員会編『覆刻社会教育資料(文化財調査記録)』では、友ヶ島周辺の海について、海流や紀ノ川などからもたらされる養分、岩礁などの環境と海産生物との関係が述べられています。
同資料には、昭和5年(1930)に加太浦で臨海実習が行われ、友ヶ島周辺の海産生物の豊富さが注目されたことも記されています。
つまり友ヶ島は、
軍事上重要な島であると同時に、自然観察の対象となる島でもあった
ということです。
赤レンガを包み込む森林や岩礁、周囲の海も、単なる遺構の背景としてではなく見てみたいと思います。
1975年の友ヶ島を2026年に確かめる
テレビ和歌山編『紀州路をゆく』に収録された「友ヶ島の魅力」の末尾には、昭和50年(1975)7月11日放映と記されています。
そこには、戦前には一般の人々が近づくことのできなかった軍事の島から、戦後は若者が海やキャンプを楽しむ島へ変わっていった様子が描かれています。
そして、砲台や弾薬庫だけでなく、松根油採取の傷跡や修験、自然についても記録されています。
それから約半世紀。
今回の訪問では、古い資料を読んだからこそ見えるものを探してみたいと思います。
特に確認したいのは、
1975年の写真に写る砲台や弾薬庫は現在どうなっているのか。
松根油採取とされる傷跡は今も残っているのか。
修験の歴史を感じさせる地形や痕跡はどのように残っているのか。
紀淡海峡を実際に眺めると、海防の要衝だった理由を地形から理解できるのか。
という点です。
友ヶ島を「砲台跡の島」だけで終わらせない
訪問前に資料を調べてみると、友ヶ島にはいくつもの時代が重なっていることが分かりました。
修験の島。
紀淡海峡を守る海防の島。
船を導く灯台の島。
大阪湾を守る近代要塞の島。
そして、
森林と海に囲まれた自然の島。
これらは別々の話ではありません。
同じ紀淡海峡の地形と自然の上に、人々が時代ごとに異なる意味を見いだしてきた結果です。
今回は、
「なぜ、ここにあるのか」
という視点を持って、実際に友ヶ島を歩いてみたいと思います。
現地訪問後は、今回調べた資料と実際に確認できたものを照らし合わせ、改めて友ヶ島の姿をまとめる予定です。
参考文献
・テレビ和歌山 編『紀州路をゆく』帯伊書店、1976年。「友ヶ島の魅力」pp.89–92。
・和歌山市教育委員会 編『覆刻社会教育資料(文化財調査記録)』和歌山市教育委員会、1980年3月。





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