神戸アルプスとは何か|昭和10年の神戸新聞に見る六甲全山縦走路の原型


昭和10年(1935年)の神戸新聞を読んでいて、ひとつ気になる表現に出会った。
それが 「神戸アルプス」 という言葉である。

これまで私は、この呼称を加藤文太郎の著書『単独行』や、新田次郎の著書『孤高の人』の中で目にしてきた。
しかし、新聞紙上でこの呼称を確認したのは今回が初めてである。

少なくとも、昭和10年の時点で「神戸アルプス」という言葉が新聞記事に登場していたことは確認できた。
ただし、その起源や初出については現時点では不明であり、引き続き検証が必要である。


神戸新聞、昭和10年5月20日。「通称・神戸アルプス」と記された記事。
目次

神戸アルプスという呼び名

記事中では、神戸市北部の山並みについて
「通称・神戸アルプス」
という表現が使われている。

このことから少なくとも、昭和10年の時点で「神戸アルプス」という呼称が一定程度認識されていた可能性がある。

※現在「神戸アルプス」という言葉は、須磨三山、いわゆる須磨アルプスを指して使われることもあるが、本記事で扱う「神戸アルプス」は、昭和初期に六甲山系の縦走ルート周辺を指して使われていた呼称である。


昭和初期の縦走路と現在の違い

現在一般的に知られている六甲全山縦走路とは異なり、昭和初期の縦走ルートは、鵯越から烏原水源地を抜け、鍋蓋山方面へ直接取り付く流れが一般的だったと考えられる。

ここで興味深いのは、城ケ越山、現在の菊水山がそのルートに含まれていない点である。

それにもかかわらず、昭和10年の新聞では、この周辺の山域が「神戸アルプス」として扱われている。
この点は非常に興味深く、当時の「神戸アルプス」という言葉が、単なる縦走路そのものではなく、より広い山域を指す呼称であった可能性も感じさせる。


なお、菊水山山頂の石碑については、こちらの記事で一次資料をもとに設置時期を検証している。
昭和10年5月20日、菊水山山頂の石碑はまだ現在地になかった|大楠公六〇〇年祭の植樹式から検証

当時の山と登山事情

昭和初期の六甲山系は、現在のように登山道や案内標識が整備されていた時代ではない。
急な登りと下りを繰り返す山並みを、一日で歩き通すことができたのは、ごく一部の屈強な登山家だけだったと考えられる。

そのような時代に活躍したのが、加藤文太郎である。
険しい尾根筋をたどる六甲山系の山並みは、登山家たちにとって、親しみと憧れを込めて「神戸アルプス」と呼びたくなる存在だったのかもしれない。

ただし、この命名の経緯自体は現時点で裏付け資料を確認しておらず、ここはあくまで当時の登山事情から見た推測にとどまる。

現在の菊水山山頂。毎朝登っていると、この山が神戸の背後にどう立ち上がっているかがよくわかる。
菊水山山頂。2026年3月撮影

現地で感じること

私は毎朝のように菊水山に登り、山頂や登山道の様子を見てきた。
山頂からは神戸市街地が見渡せ、日の出の時間帯には、この山が神戸の風景の一部であることを強く実感する。

その一方で、昭和10年当時の新聞を読むと、今とは異なる呼び名、異なるルート感覚、異なる山の見え方があったことに気づかされる。
「神戸アルプス」という言葉は、そうした時代の山の空気を今に伝える貴重な痕跡と言えるだろう。


【ここに写真③を挿入】


菊水山山頂からの日の出。今も神戸の背後に立つ山の存在感は大きい。

電波塔と石碑が並ぶ現在の菊水山山頂。過去の記事と現在の風景を重ねると、この山の見え方が変わってくる。

今回わかったこと

今回の新聞確認で、少なくとも次のことが見えてきた。

・昭和10年の時点で「神戸アルプス」という呼称が新聞記事に登場していたこと
・その表現は「通称」として使われていたこと
・現在一般的な六甲全山縦走路とは、当時のルート認識がやや異なっていたこと
・城ケ越山、現在の菊水山は、一般的なルートからは外れていた可能性が高いこと

一方で、新たな疑問も残る。

・神戸アルプスという呼称は、いつから使われていたのか
・なぜルート外に近い城ケ越山が新聞で言及されたのか
・当時の登山者は、どこまでを神戸アルプスと認識していたのか


菊水山との接点

さらに興味深いのは、同じ昭和10年前後の菊水山で、山肌に「菊水紋」を描く植樹事業が行われていたことである。
現在ではほとんど知られていないが、当時の新聞写真を見ると、山肌に若松で形作られた菊水紋がはっきり確認できる。

つまり、昭和初期のこの山は、単なる通過点ではなく、神戸の歴史や景観づくりの中で特別な意味を与えられていた可能性がある。



この菊水紋がなぜ維持されなかったのかについては、資金・土地所有・維持管理の観点から別記事で整理したい。
菊水山の菊水紋はなぜ消えたのか

まとめ

昭和10年の神戸新聞には、「通称・神戸アルプス」 という表現が確認できた。
少なくともこの時代、神戸の山並みはそのように呼ばれていたことになる。

ただし、その呼称の初出や起源まではまだ確認できていない。
今回わかったのは、昭和10年時点で新聞紙上にその呼び名が現れていたという事実である。

現在の六甲全山縦走路とは異なるルート感覚の中で、城ケ越山、現在の菊水山がどう位置づけられていたのか。
この点は、今後さらに調べていきたい。

菊水山山頂の朝の様子

実際の菊水山山頂の様子は、こちらの動画でも記録している。

菊水山には300日以上、日の出の時間帯に登り続けている。その中から、山頂の朝の様子や、
朝日に向かって体を動かす時間の一部を記録した。

参考文献

・神戸新聞(昭和10年5月21日)
・神戸新聞(昭和11年6月5日)
・現地調査

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