晴天を衝け・2021年NHK大河・渋沢栄一・学問

晴天を衝け
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晴天を衝け・2021年NHK大河・渋沢栄一・学問

2021年のNHK大河ドラマが「晴天を衝け」に決定されました。主人公は渋沢栄一です。

渋沢栄一と言えば「日本資本主義の父」の称され、新一万円札の顔としても話題になっています。

家ではテレビを廃棄し、もうテレビは見ていませんが、昔はテレビっ子でしたので、どういう番組になるかは興味があるところです。ひょっとしたら、これでテレビを買い直しかもしれません。

そういう事でなく、実はこの渋沢栄一に関しては大変関心があります。理由としては、その著書である「論語と算盤」で多くの学問について警笛を鳴らしているからです。栄一が生きていた時代は、1840年から1931年、100年以上も前の話です。

しかし、その学問に関する栄一の考えは全く古びれる事なく、今も心に刺さる言葉を残されています。2021年の大河を観る前に、少しその一節を見てましょう。

今の青年はただ学問のために学問をしているのである。初めより確然たる目的なく、漠然と学問する結果、実際社会に出てからわれは何の為に学びやというごとき疑惑に襲われる青年が往々にしてある。

これは令和の時代になっても変わらないでしょう。勉強の為の勉強ばかりしているので、一体この学問を何の為にしているなんて誰もわからない。そして高校または大学を卒業する時に、自分の仕事をどうしたら良いかもわからない。

浅薄な虚栄人の為に修学の法を護らば、これ実に青年の一身を守るのみならず、国家元気の衰退を招く基なのである。

ある時、大工の友達から聞かれた事があります。「何で企業はいまだに学歴なんだと」。確かに学歴はもう関係なくなってきていると言っても、大企業に就職する為には学歴がいまだに優先されています。対して優秀でもない、しかも何の価値を生み出しているかわからないサラリーマンが多いのも事実です。

そんな素朴な疑問を考えるに、企業という組織では、理不尽な事がたくさんあります。だから我慢を強いられる事も多いのです。例えば、大学や大学院を出てしている人間というのは、先述した学問の為の学問をずっと我慢してやってきました、例えそれが何の役に立たない事で、馬鹿げた事を多い中、つまらない試験などに面白さを見出し、乗り越えてきたのです。企業などでは、そのように不合理な事がたくさん行われます。そのように我慢してきた履歴として学歴が評価されるというのが私の見解です。

社会に出て良い大学を卒業してと言われる人たちにあっても、千差万別です。能力がある事、仕事ができる事と学歴が関係ないことが分かります。

昔の学問と今の学問を比較してみると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識をえる事のみに注いでいる。昔は読む書籍その者が、ことごとく精神修養を説いているから、自然とこれを実践するようになったのである。修養斉家と言い、治国太平下と言い、人道の大義を教えたものである。

本当にそうですね。今の学校で教える教育は人間教育とはおおよそ関係のないことばかりです。智識の習得です。しかもその知識も変化の激しい時代には適応できなくなってきました。しかし人間教育は、世の中の時代の変化が起っても変わる事がありません。

今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ。学校の生徒のごときは、その教師を観る事、あたかも落語師か講談師のごとく講義が下手とか、解釈が拙劣であるとか、生徒としてあるまじき事を口にしている。

100年も前からそんな事が言われているんですね。まだ昭和になる前ですから、明治や大正の時代です。

今ではテープレコーダを読みあげるだけのような教師もいるくらいですら、今ならMP3やYoutubeで録画して置いて流すだけ代変えできるような教員が増えた事も悲しい事ですが。

これについて補足しておきますと、渋沢が生まれた江戸時代は、教員免許がなければ、小中高の正式教員に慣れないという時代ではありませんでした。人口の5%しかいなかった武士教育は除外するとして、公立の学校というものはなく主に庶民の子供たちの初等教育は寺小屋で教育が行われていました。

そこでは教師に対する呼びかけが「お師匠様」で、上に「お」、下に「様」をつける最高の敬称を用いていたのである。お師匠様になったのは地域の知識人で、都会では職業としていた人が多かった。農村部では生活に余裕のある名主、庄屋などの階層の人が、ボランティアのように教える場合も多かったそうだ。

富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬いるに、救済事業を持ってすがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会の為に助力しなければならぬ筈と思う。

社会貢献事業ですが、これも今の教育では教えてくれない事でしょう。お金の稼ぎ方も、その稼いだお金を使ってどのように社会に還元するかも学ぶ事は学校ではありません。

言を発して庭にみつ。誰か敢て(あえて)其の咎(とが)を執らん。

皆が意見を述べて庭中いっぱい、けれども誰もその責任を取ろうとはしない。

最近のマスコミやツイッターなどをみているとそんな感じですね。ただこれはそれだけに止まらず、どこにでも当てはまる事だと自戒も込めてうけとめたいと思います。

2021年のNHKの大河ドラマ、「晴天を衝け」本当に楽しみですね。渋沢栄一のどのような想いを表現してくれるのでしょうか。

参考文献


論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

見てきたように絵で巡る ブラッとお江戸探訪帳 (講談社文庫)

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この記事を書いた人

自由度の高い発信を求めて2019年11月よりFurublogを開設。雑誌や新聞で幅広く活躍中。鮮魚店配達、料理人、うどん打ち、電気工事士、デパートの早朝掃除、事業開発など様々な職種を経験。フランス留学、食文化、温泉、時事ネタなど独自の視点で発信。

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