現現在「菊水山」と呼ばれている山は、もともとその名で呼ばれていたわけではない。
大正期の登山文献には、この山は城ヶ越山(しろがごえさん)として現れ、しかも神戸アルプスの主峰と記されている。
ただし、ここで注意すべき点がある。
当時の山名は必ずしも統一されておらず、大正14年の文献には**「山名は各登山会が命名したので確たる名を持たぬ」**と明記されている。
つまり、城ヶ越山という名も、近代登山の中で用いられた有力な呼称ではあっても、当時から絶対的・公的に固定された名称だったとは言い切れない。
本記事では、その不安定な呼称を持っていた山が、なぜ昭和10年に「菊水山」と命名され、どのように社会に定着していったのかを、現時点で確認できる文献から慎重にたどっていく。
■ 城ヶ越山の読みは「しろがごえさん」
大正13年の文献
近畿登山研究会 編『近畿の登山』には、次の記述がある。
城ヶ越山(しろがごえさん)
(出典:近畿登山研究会 編『近畿の登山』ヤナギ会、大正13年、国立国会図書館デジタルコレクション)
▶ NDL該当ページ(リンク)
👉 重要ポイント
- 「ごえ」と濁る
- 「こえ」ではない
- 城ヶ越山=しろがごえさん
※現時点でルビが明確に確認できる資料はこの1点のみ
→ 有力な一次資料だが、他資料との照合は継続中
■ 城ヶ越山(しろがごえさん)と記載された大正13年の文献

■ 城ヶ越山は神戸アルプスの主峰だった
同文献にはこうある。
神戸アルプスの主峰
さらに
神戸アルプスの名称も、この山にふさわしきものであろう
👉 当時の位置づけ
- 神戸アルプス=山域・ルート概念
- 城ヶ越山=その中心的存在
■ 山名は固定されていなかった
翌年の『登山と遊覧 : 近畿名所その附近』(関西体育奨励会編、小西猪之助、大正14年)には、さらに重要な一文がある。
神戸アルプスの主峰ともいう「高山」または「城ヶ越山」(ルビ不鮮明で読み取り困難)
(山名は各登山会が命名したので確たる名を持たぬ)
この記述は非常に大きい。
なぜなら、ここにはっきりと、山名は各登山会が命名したので確たる名を持たぬと書かれているからである。
つまり、大正期の時点では、
- 城ヶ越山
- 高山
など、同じ山に複数の呼称が存在しえた。
しかもそれは、地域社会全体で固定された公称ではなく、登山文化の中で使われる呼び名だった可能性が高い。
このことによって、昭和10年神戸新聞の
通称・神戸アルプス「城ケ越山」
という表現が、いっそう理解しやすくなる。
「神戸アルプス」も「城ヶ越山」も、当時すでに広まりつつあったが、なお通称的性格を残す呼称だったのである。
(出典:関西体育奨励会 編『登山と遊覧』大正14年/NDLリンク)
■ 昭和10年:通称「神戸アルプス 城ヶ越山」
神戸新聞(昭和10年5月)
通称・神戸アルプス「城ケ越山」
(神戸市立中央図書館 マイクロフィルム確認)
👉 ポイント
- 「通称」と明記
- この時点でも正式名称ではない
■ 菊水山の誕生
神戸新聞(昭和10年)
菊水山と命名
産声あげた菊水山
(出典:神戸新聞 昭和10年5月18日・21日)
神戸市立中央図書館 マイクロフィルム)
※本資料はマイクロフィルムを拡大鏡で確認
■ 産声あげた菊水山


■ 国家的・教育的プロジェクトとしての命名
神戸新聞(昭和10年5月21日)によれば、この植樹祭には
- 神戸全市の小学校児童12万人
- 市内63校の小学校
- 校長・職員
- 市長代理
- 湊川神社関係者
が関与していた。
また、『山手教育四十年』(神戸市山手尋常小学校編、昭和15年)には、心身鍛錬の目的地として菊水山が掲げられ、備考として
城ヶ越山……海抜四五八・九米 神戸アルプス主峯
大楠公六百年祭記念トシテ市小学校児童一人三銭宛ノ献金ニ依リ菊水ノ形ニ植樹
菊水山ノ名アリ 山上ニ記念碑アリ
とある。
ここから言えるのは、命名の契機そのものは昭和10年の大楠公六〇〇年祭であり、その後に学校教育を通じて名称が社会に浸透していったということである。
ここは慎重に書くべきで、
- ❌ 教育が命名した
- ⭕ 祭事で命名され、教育を通じて浸透・定着した
という表現が最も正確である。
『山手教育四十年』該当ページ

昭和15年 山手教育四十年 菊水山と城ヶ越山の記述
6.湊川神社の真北にそびえる主峰という象徴性
この山が選ばれた意味も大きい。
城ヶ越山(しろがごえさん)は、当時の文献で神戸アルプスの主峰とされていた。
しかもその位置は、湊川神社の真北にそびえる背山である。
大楠公六〇〇年祭の本祭は湊川神社で行われ、湊川公園では楠公像の除幕式も行われた。
湊川神社と湊川公園は隣接ではないが、徒歩圏の同一都市空間のなかで、楠公顕彰の中心を成していた。
その北方にそびえる主峰に、楠木家の家紋である菊水紋を山肌に描き、菊水山と命名する。
これは、単なる登山道の一地点に名前をつけたのではなく、祭の象徴軸の一部として山を再定義した事業と見る方が自然である。
ただし、ここは史料に「意図的配置」と明記されているわけではない。
したがって、本記事では次のように書いておくのが適切である。
湊川神社の真北に位置する神戸アルプスの主峰が、楠木家の家紋を描く山として選ばれたことは、この山が祭において象徴的意味を担う場所とみなされていた可能性を強く示している。
現在の菊水山



7.「禿山」から「菊水山」へ──山の意味の転換
大正13年の『近畿の登山』に描かれる城ヶ越山は、ほとんど樹木を持たない裸山だった。
それは「神戸アルプス第一の偉観」とされる、荒々しく男性的な高山的景観だった。
しかし昭和10年の植樹事業によって、この山は
- 山肌に菊水紋を描く山
- 楠公顕彰の山
- 小学校教育とも結びついた山
へと変わっていく。
つまり、ここで起きたのは単なる改名ではない。
景観・象徴・社会的意味の転換だった。

8.城ヶ越山(しろがごえさん)の読みについて
最後に、読みについて整理しておく。
現時点で確認している範囲では、
- 『近畿の登山』(大正13年)に**城ヶ越山(しろがごえさん)**のルビがある
- 神戸新聞(昭和10年5月18日)では**城(しろ)**にのみルビがある
- 他の文献ではルビが不鮮明、または付されていない
したがって、現時点では
城ヶ越山(しろがごえさん)
を最有力の読みとして扱うことはできる。
ただし同時に、現段階では明瞭に確認できたルビ資料は1文献であることも明記しておくべきである。
今後、国立国会図書館デジタルコレクションの本登録後の追加確認や、中央図書館レファレンス係からの回答によって、さらに精度の高い整理が可能になる見込みである。
おわりに
この山の名前を一つに確定すること自体も大切だが、それ以上に重要なのは、
どのような経緯で、通称的な主峰が、都市を代表する象徴の山へと変えられたのかを知ることだと思う。
大正期、神戸アルプスの主峰として登山者に愛された城ヶ越山(しろがごえさん)。
昭和10年、その山は約12万人の学童が関わる大事業によって「菊水山」と名づけられた。
そしてその名前は、学校教育と地域社会を通して定着していった。
山の名は人がつける。
しかし、その名前が生まれる過程には、その時代の思想と空気が刻まれている。
菊水山とは、まさにそうした時代の力によって生まれた山名だったのである。
■ 参考文献
- 近畿登山研究会 編『近畿の登山』ヤナギ会、大正13年
- 関西体育奨励会 編『登山と遊覧 : 近畿名所その附近』小西猪之助、大正14年
- 神戸市山手尋常小学校 編『山手教育四十年』神戸市山手尋常小学校、昭和15年
- 神戸新聞 昭和10年5月18日
- 神戸新聞 昭和10年5月21日


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