神戸市兵庫区と北区の境にある菊水山。
湊川神社の背後にそびえるこの山は、現在では当たり前のようにその名で呼ばれている。

※菊水山山頂の石碑(2026年3月撮影)
しかし、この「菊水山」という名称は、いつ、どのように生まれたのか。
中央図書館で大楠公六〇〇年祭当時の神戸新聞を調査する中で、
その起点となる日を特定することができた。
昭和10年(1935年)5月20日。
この日、城ケ腰山(じょうがこしやま)の山上で大規模な植樹式が行われ、
山肌に菊水紋を描く事業が始まっている。
そして神戸新聞はその翌日、
すでにこの山を**「菊水山(紋章山)」**として報じていた。
※本記事では、当時の新聞記事をもとに構成しています。
原文は旧仮名遣いや判読困難な箇所があるため、一部を現代語に改め、劣化の激しい部分は割愛しています。
※本文は神戸新聞原文を再確認し、一部表現を修正しています。
神戸新聞(昭和10年5月21日)が伝えた「産声あげた菊水山」


見出し
「産声あげた菊水山
新緑の風に翻る
二万本の菊水旗
今日、城ケ腰山に市民代表学童が
赤誠凝れる植樹式」
この見出しにおいて、すでに重要な事実が確認できる。
従来「城ケ越山(じょうがこしやま」と呼ばれていた山が、
この時点で「菊水山」として報道されている。
しかも表現は、
**「産声あげた菊水山」**である。
これは単なる呼称の紹介ではなく、
この日をもって新しい象徴的な山が誕生したことを示している。
菊水山の名が立ち上がった起点
記事本文では、大楠公六〇〇年祭を記念し、
神戸市内の小学校児童が関わる大規模事業として、
錨山・市章山に対する存在として「菊水山(紋章山)」を建設する計画が記されている。
そして植樹式は、昭和10年5月20日午前10時、
城ケ腰山(じょうがこしやま)の山上で行われた。
ここで重要なのは、
翌5月21日の神戸新聞において、すでに「菊水山」として報道されている点である。
この植樹式を契機に、新聞上では『菊水山』という名称が成立していたと考えられる。
👉 菊水山という名称の成立の起点は、昭和10年5月20日の植樹式にある可能性が高い。
都市の象徴として設計された山
神戸新聞は菊水山を、
市章山・錨山に対する存在として位置づけている。
つまり菊水山は、
👉 自然に名付けられた山ではなく
👉 都市の象徴として設計された山
であった。
約2万本の松で描かれた菊水紋
植樹された松は、
・東西40間(約72.7メートル)
・上下40間(約72.7メートル)
・約2万本
※1間=約1.82メートル換算
事前に測量し、網を張り、赤旗で位置を指定したうえで、
児童たちが植えていった。
👉 山そのものを使った巨大な記号の構築
山肌に浮かび上がる菊水紋

今回確認できた写真では、
山肌に菊水紋がはっきりと浮かび上がっている。
このことは、神戸新聞に記された計画が、
実際に視認可能な景観として成立していたことを示している。
現地から見た菊水山
毎朝この山を歩き続けていると、
この石碑や山の成り立ちに対して、自然と疑問が湧いてくる。
昭和10年の新聞が示す時代の空気
昭和10年5月の神戸新聞は、
大楠公六〇〇年祭一色であった。
首相をはじめとする祝辞が掲載され、
紙面全体に強い高揚感が漂っている。
現時点で確認できる事実
・昭和10年5月20日、城ケ越山(じょうがこしやま)で植樹式が行われた
・翌5月21日の神戸新聞で「菊水山」として報道
・約2万本の松で菊水紋を形成
・都市景観として構想された山
まとめ

※毎朝300日以上通い続けて撮影した菊水山山頂の石碑と朝日
菊水山の名は、自然に定着したものではない。
👉 植樹式という出来事を契機に、社会的に立ち上がった名称である可能性が高い。
昭和10年5月20日。
この日、城ケ腰山は「菊水山」として産声をあげた。
なお、行政上の正式名称変更時期については、別途検証が必要である。
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参考文献
・神戸新聞 昭和10年5月21日
・現地調査


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